東京外国語大学(写真:haku/PIXTA)

東京外国語大学が、本年度の大学入学共通テストから数学2科目の受験を必須化した話題が、ニュースとしても大きく取り上げられている。とくに、前期の志願者数は前年比で74%に急減し、倍率が1.1倍の専攻もあることが注目されている(2月25日の読売新聞オンラインを参照)。

これは、早稲田大学政治経済学部の2021年度入試から数学IAを必須化した以上のインパクトがあったようである。「経済学に数学が使われるから早稲田の件は理解できるが、外国語や文化の学びに数学と言われても理解しがたい」という意見もあるようだ。

語学や文化を学ぶにも数学が必要な理由

筆者は2月22日の東洋経済オンラインに「『MARCH』と大学を括る人が知らない偏差値の本質」という題の記事を載せ、数値を用いて偏差値の諸問題を詳しく述べて、多くの読者に読んでいただいた。およそ客観的な「数」を用いると、主観的な表現より説得力が増すのである。そして、「数」を用いた分析においては「数学」が必須となる。

紀元前8000年頃から始まる新石器時代の近東では、円錐形、球形、円盤形、円筒形などの形をした小さな粘土製品の「トークン」というものがあった。壺に入った油は卵型のトークンで数え、小単位の穀物は円錐形のトークンで数える、というように物品それぞれに応じた特定のトークンがあった。整数の概念がなかった時代でも、そのように1対1の対応の概念によって物品の客観的な管理をしていたのである。その後、整数の概念が確立し、客観的な議論においては「数」を用いるようになった。

どんな政治体制でも、絶対的な独裁者であっても、「数学」の結論を捻じ曲げることはできない。かつて、世間を恐怖のどん底に陥れたカルトから離れた人が筆者を訪ねてきて数学を論じることもあったが、数学に対する信頼感を強くもっていたことを思い出す。

そのような視点から考えると、「経済を学ぶには数学は必要だが、語学や文化を学ぶには数学は不必要」と考えることには無理がある。いくつかの事例を紹介しよう。

かつて国語学の専門家が、「源氏物語の『宇治十帖』は他の源氏物語と比べると読後感が異なる」と述べられたことがある。これに関して、いろいろな品詞の使用頻度を調べると、それらは同一の作者だとする確率は低いとする研究結果がある。また海外では、シェイクスピアの作品には悲劇や喜劇などいろいろあるが、謎に包まれた作者や作品に関して、1語当たりの文字数からの研究などがある。

文章を計量的に分析する研究は、計算機の発達に伴ってますます盛んになっている。最近では、脅迫状の文章分析によって容疑者に迫る捜査もあり、かつてのように筆跡鑑定ではない新たな捜査手法が開発されてきている。文書作成ソフトが普通に使われる現在では、「これらの文章は同一の者が書いたとみなされる」あるいは「これらの文章は複数の者が書いたとみなされる」などの分析結果は有力なのである。

使い方だけではなく背景の理解が重要

そのような学びの基礎として統計学は必須であるが、ここで注意したいことがある。たとえば2つの変量に関する相関係数が1に近い場合、「強い相関がある」と理解している方々は多いが、詳しく述べると、「それら2つの関係は正の傾きの直線的である」ということである。車がブレーキを掛けてから止まるまでの距離は、速度の2乗に比例しているので、相関係数は1とは離れる。だからといって、「それらは関係がない」とは言えないのだ。

このような事例はいろいろあるが、入力方法だけを学んで背景の数学を学ばないと、そのように誤った判断をしてしまうことがある。前出の2月22日の東洋経済オンラインの記事の最後にも紹介したが、いわゆるデータサイエンスの有力な手法である多変量解析に登場する分散共分散行列の固有値というものについても、理解の学びを軽視してはならない。それに関する学びについて、入力方法だけに偏っていることに危惧の念をもつ。

さて、上記で登場した数学用語と現行の高校数学Iの指導要領を比べると、いわゆる(sin、cos、tanなどの)三角比にはまったく触れていない。これに関しても大きな研究テーマを紹介しよう。それは、江戸時代の文化としての「浮世絵」である。いわゆる「顔」について、顔の表面にあるいくつかの点からつくられる角度を計測することから始まる研究である。これに関しても計算機のハード面での発達に支えられていることもあるが、最近では3次元空間におけるベクトルを用いた研究も盛んになっているそうである。

上記で述べたことからも、大学で言語や文化などを学ぶ準備として、高校で数学Iや数学Aなどを学んでおくとよいだろう。注意すべき点は上でも触れたことであるが、「やり方」の暗記ではなく「理解」の学びが大切である。実際、次のような困った事例はいろいろ報告されていることに留意したい。

2012年度の全国学力テストから加わった理科の中学分野(中学3年対象)で、10%の食塩水を1000gつくるのに必要な食塩と水の質量をそれぞれ求めさせる問題が出題された。これに関して、「食塩100g」「水900g」と正しく答えられたのは52.0%にすぎなかった。1983年に、同じ中学3年生を対象にした全国規模の学力テストで、食塩水を1000gではなく100gにした同一の問題が出題されたが、この時の正解率は69.8%だったのである。

日本数学検定協会の3級で出題される2次方程式の問題で、簡単なはずの

a×x×x+c=0

という型の問題のほうが、解の公式を用いる

a×x×x+b×x+c=0

という型の問題より多くの場合、成績が悪いのである。これは、暗記偏重の学びであることの証しであろう。

「ゆとり教育」時代からの変化

筆者はこのような事態を憂慮して、2020年12月に『AI時代に生きる数学力の鍛え方』(東洋経済新報社)を上梓したのである。今月末に現本務校で70歳の定年退職となって45年間の大学教員生活の幕を閉じるが、4月からは次のように、高校生に対する教育に軸足を移す気持ちを固めた次第である。

1つは、同書を読んだ高校の先生から、勤務する神奈川県にある中学・高校の一貫校の数学に関する「探求学習」の指導を依頼されたこと。もう1つは、東京都内の女子高校で、非常勤講師として理解の数学教育を通して、少しでも生徒を数学好きに導く試みをスタートさせる運びとなったこと。

振り返ると、1990年代に「ゆとり教育」に突き進む頃の、数学に対する厳しい世相と比べると、現在はフォローの風が吹いていると感じる。当時、「これからは文化の時代で、数学教員は不要ゆえ、学校に残りたければ家庭科の教員になってほしい」と言われてその通りにして、夕方のテレビ情報番組にエプロンを付けさせられて出演した数学教員の姿を筆者は忘れられない。

現在は経済産業省のレポート「数理資本主義の時代」など、数学を重視する動きが活発になっている。このような動きをより良い方向に導くために、謙虚に努力していきたい所存である。

(芳沢 光雄 : 桜美林大学リベラルアーツ学群教授)