織田信長の天下取りの出発点であり、天下平定を目指した武将が重要拠点としていた清須城。1989年に現在の場所(愛知県清須市)に「清洲城」として再建整備された(写真:まさくん/PIXTA)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第3回「三河平定戦」では、妻子の待つ今川と恐怖の対象でしかない信長のどちらにつくかで揺れ動く徳川家康(松平元康)を松本潤さんが演じ、そのつらい状況に同情する視聴者からの声があふれました。第4回「清須でどうする!」では信長との同盟を結ぶまでが描かれるようですが、そもそも戦国時代における妻子や同盟とは、どんな扱いだったのでしょうか。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者、眞邊明人氏が解説します。

清洲同盟ってなに?

織田信長と徳川家康(松平元康)が桶狭間の合戦の2年後に結んだ軍事同盟を「清洲同盟」、または「織徳同盟」とも言います。基本的には「互いの領土を互いで守る」という内容で、大河ドラマ『どうする家康』では、家康が清洲城の信長を訪ねて正式に締結されます。

「清洲同盟」という呼び名は、この同盟が清洲城で結ばれたことに由来します。しかしながら第一級の資料には、清洲城で信長と家康が顔を合わせて同盟を締結したという記録はなく、同盟の詳細を記した書面も見つかっていません。

そういうわけで正確にどんな取り決めがあったかは判明していないのですが、両者が同盟を結んだことは間違いないとされています。これは信長が本能寺の変で死ぬまで続く、戦国時代で最も長く続いた同盟でした。

当時の同盟は、じつは基本的に「口約束」程度のゆるさで、締結しては破棄されるということの連続でした。そのため多くは互いに婚姻関係を結んだりして、同盟の有効性を高めようとしました。例えば桶狭間の合戦の遠因ともなった今川、武田、北条の三国同盟は、今川義元の娘が武田信玄の長男に嫁ぎ、武田信玄の娘が北条氏康の長男に嫁ぎ、北条氏康の娘が今川義元の長男氏真に嫁ぐという複雑な婚姻関係を結んでいます。

当時の婚姻のほとんどは政略結婚で、互いの信用を高める重要な施策でした。しかし利がないと見ると、たとえ婚姻関係を結んでいたとしても平気で同盟を破棄するのが当時の戦国武将たちの常で、今川・武田・北条の三国同盟も、今川義元が死んで今川家の勢いが衰えたとわかると、武田信玄は同盟を破棄して今川に攻め込みます。したがって同盟を長続きさせるには、互いの利害の一致と戦力の均衡が必要なのです。

戦力の均衡という意味では、清洲同盟は織田の勢力の急拡大によって弱まっていきますが、利害関係においては互いの戦略を補完しあっており、それがこの同盟が長続きした理由だと思われます。

清洲同盟は織田に有利だったのか

『どうする家康』では信長が猛烈に元康に圧力をかけて同盟にこぎつけますが、実際のところ同盟締結前の信長と元康の力関係は、どうだったのでしょうか。

まず信長は、今川義元を奇跡的に討ち取った桶狭間の合戦で名声を得たとはいえ、実際は攻め込まれた側ですから、領土などの実質的な利益を得たわけではありません。それどころか、国内では叔父の織田信清が反信長勢力として活動しており、隣国の美濃とも信長に好意的であった舅の斎藤道三が死んでから険悪な状況になっていました。

信長としては国内と西側の圧力があり、戦線を東に展開する余裕はなかったと思われます。一方の元康は岡崎城に入り、三河での半独立のような体制から、今川に対して明確な離反の動きに出ていました。

この間、北条氏が今川との和睦を元康に働きかけて、なんとか今川陣営にとどめようとしています。これは今川家の基本的な姿勢だったと思われます。元康との和睦に北条氏が入った事実を見ると、北条氏はこの時期、今川のバックアップに入っていたように思われますが、甲斐の武田信玄は積極的に元康と今川の間に入った様子はありません。

ただ、今川としては、西側の織田の圧力を防ぐ(実際には信長には今、その余裕がないとしても)要として元康は絶対に必要な勢力だったのです。万が一、元康が織田側についてしまうと、たちまち西側の脅威が現実化します。こう考えると、桶狭間の合戦後の元康の市場価値はそれ以前と比べものにならないくらい高まっていたと思われます。

信長が今川義元を討ち取って得たものよりも、元康が実質的に得たもののほうが大きかったと言えるのではないでしょうか。今川氏真がもう少し戦略眼のある武将であれば、どんなに厚遇をしても元康を味方に引き込むべきでしたが、彼は元康の行動を甘くみて結果的に「清洲同盟」を許してしまうのです。

信長の戦略眼と元康の意思決定

一方の信長の戦略眼は確かでした。信長という人物の先を読む力は、やはり尋常ではないと言わざるをえません。今川義元を打ち破った信長は、その勢いのまま三河に攻め込むことをしませんでした。それは信長が、冷静に自軍の状態を理解していたからでしょう。

もし、そのまま三河に攻め入れば、もちろん元康は抵抗しますから、三河全体を敵に回します。それだけでなく今川氏真の判断次第では、今川が大軍を援軍に派遣するかもしれません。そうすると、織田軍には多大な損害もしくは桶狭間の合戦の勝利を帳消しにするような敗北もあったかもしれません。

信長はそのようなリスクを冒さず、元康の出方をみて、合戦ではなく外交交渉で味方につけようとしたのです。信長は好戦的な人物に見られますが、避けることのできる合戦は避けようとした人物で、基本的には外交を軸に目的の達成を果たそうとしました。そのため積極的に政略結婚を行います。武田信玄の息子である勝頼に自分の養女を、浅井長政には妹のお市を、そして元康の長男・信康にも自分の娘を嫁がせます。合戦は兵力を損耗するものです。信長は合理的な計算で戦略決定をしていました。

それでは元康の意思決定は、どのようにして信長との同盟に傾いていったのでしょうか。これは、今川氏真の責任が大きいと思われます。氏真は、元康に対して義元時代と同じような扱いにとどめました。最近の研究では元康が勝手に三河に居座ったのではなく、氏真の指示によるものだという説もありますが、それであっても元康の地位が今川家の中で上がったわけではありません。

元康は、己の戦略的価値を信長との交渉で実感したのではないでしょうか。氏真の戦略眼と信長の戦略眼を把握したところ、氏真では武田や北条とまともに渡り合えない。であれば今川領を狙い、西の織田の脅威を取り除くことで一気に勢力の拡大を図れるのではないかと考えたのでしょう。

元康もまた確かな戦略眼を持っていたといえます。

対等だった清洲同盟の行く末は?

清洲同盟は、順調に機能しました。信長が尾張統一から美濃の攻略、元康は三河統一から今川領である遠江への侵攻と互いに勢力基盤を伸ばします。しかし今川を離れ「家康」と名を改めた元康の前には、甲斐の武田信玄という強敵が控えていました。このため家康の勢力拡大は頭打ちになります。

一方の信長は美濃攻略後、破竹の勢いで勢力を拡大します。足利義昭を奉じて京にのぼり、一気に覇権を手に入れました。この時の信長の最大のライバルも、やはり武田信玄です。信長はさきほど記した武田勝頼との養女の婚姻を含め、なるべく信玄と敵対しないようにしています。


信長の戦略眼の鋭さは、この信玄の押さえに家康が機能すると見抜いていたところに現れています。じつは信長が信玄と友好関係を維持している間、家康は信玄と今川領をめぐり激しく対立していました。家康は北条と同盟し、信玄の動きを牽制します。

信長は当初、家康にも信玄と協調するように働きかけますが、近接した紛争地を抱えている家康はこれを頑なに拒否します。このため信玄としては、信長を攻めるにしても、まず家康と戦わなければなりません。連戦となるとそれなりの準備が必要なので、信長としてはかなり時間を稼げました。

ここで信玄は体調を崩し、ようやく信長との決戦を行おうとしたものの、その最中に亡くなってしまいます。武田勝頼がその跡を継いだものの、織田徳川の連合軍に滅ぼされてしまいました。この武田の滅亡により、信長が懸念していた戦略上の問題が消滅して家康の戦略的価値が落ちます。その結果、清洲同盟は実質的に徳川の織田への従属へと変化していくことになるのです。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)