Max Serra

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今やほとんど忘れ去られた1952年ザヌッシ1100スポルトは、技術に精通する男がひとりで造り上げた稀有なマシンだった。

【画像】ひとりの男が、自身の小さなワークショップで造り上げた「ザヌッシ1100スポルト」(写真11点)

いかにもスポーティーな赤い車。けたたましさは私が保証する。だが、これが走っていても、誰かが「ザヌッシだ!」と叫ぶことはない。このメーカーを知る人はほとんどいないからだ。ザヌッシの生産台数は、ごく少数、たった7台である。あとは、顧客の車、主にフィアットの508バリッラや1100をモディファイしたものが少数あるだけだ。これは極めて特異な1台なのである。

フィオラヴァンテ・ザヌッシ

ザヌッシは、1894年に、イタリア北西部のパジアーノ・ディ・ポルデノーネで生まれた。9人兄弟の長男で、幼い頃から機械なら何にでも興味を示した。兄弟のうち他の4人も自動車関係の仕事についている。ザヌッシは16歳のとき、トリノで自動車とエンジンを製造するアノニマ・アクイラ・イタリアーナ(Anonima AquilaItaliana)で職を得た。まもなく、もっと大きく基盤のしっかりした自動車メーカーのSCAT(Societa Ceirano Automobili Torino)に移ると、レース部門に配属された。

これには重要な意味がある。SCATを率いるチェイラーノ兄弟は、1900年代初頭、発展するイタリア自動車シーンの牽引役であり、当時のイタリア車の進歩に計り知れない貢献を果たした。SCATはタルガフローリオを1911年、12年、14年に制覇している。また、レーシングドライバーとして有名なタツィオ・ヌヴォラーリは、第一次世界大戦前まで、ヴェネト地方でSCATを販売していた。才能豊かで情熱的な若きザヌッシは、最高の場所で知識と経験を蓄えることができたのである。

1914年に、ザヌッシはエンジン試験のスペシャリストとして、FIAT(Fabbrica Italiana Automobili Torino)に雇われた。しかし、イタリアは戦争に突入し、ザヌッシもモーターサイクルの伝令役として入隊した。ザヌッシの息子のエツィオはこう語る。

「父は飛行機に憧れていた。成長著しい陸軍の新部隊だった。チャンスを見つけて異動を希望したけれど、指揮官は父の技術を失いたくなかったので、必要な書類に署名してくれなかった。父は昇進を提案されたのに、それを拒んで罰せられた。そういう男だったんだよ」

戦争が終わると、フィオラヴァンテ・ザヌッシは1919年にトレヴィーゾに移り、自身のワークショップを開業した。四輪も二輪も受け入れてチューニングし、地元のジェントルマンドライバーに知られる存在となる。さらには、宣伝の一環として、自ら地元のイベントに出走するようになった。

「1924年に二輪のレースに出た証拠がある。スーパーチャージャーを搭載した100ccのスペシャルバイクだった。四輪でも、ヴィットリオ・ヴェネト−カンシリオ・ヒルクライムといったイベントにOMで出走していた」と、90歳にして壮健なエツィオは語る。

「理由はまったく不明だが、モーターサイクルの仕事を突然やめたんだ。父はオープンな性格ではなく、仕事の話は滅多にしなかった。自分の目で見たことは記憶に残りやすい。父は一度そう決めると、二輪は作業場にも家のガレージにも二度と持ち込まなかった」

ザヌッシは1928年に、自らチューンアップしたアルファロメオRLで、ブレシア・スピード・キロメーターに出走すると、総合優勝より速いタイムをたたき出した。1936年には、イタリアの植民地だったソマリアへ渡り、ディーゼルの燃料ポンプのスペシャリストとして短期間働いた。帰国すると、トレヴィーゾの新しいワークショップで、1938年にイタリア選手権を制したアルベルト・コミラートのフィアット1100スポルトの面倒を見た。

イタリアに群小スポーツカー時代が到来

ちょうどミッレミリアが成長していた時代である。イタリア各地の小さなワークショップでは、わずかな資金とあふれんばかりの創造力を駆使して、レース用スペシャルが製造されていた。こうした機運が最初に高まった頃を、多くの人は”Etceterini(エッチェテリーニ)”と呼んでいる。スタンゲリーニ、エルミーニ、ジャンニーニといった名前が有名で、いずれも1960年代までイタリアのレースシーンを象徴する存在だった。

「父は、第二次世界大戦が始まる直前に、自分の名を冠した車を製造するという夢を実現させた。手始めに、フィアット 508C1100のローリングシャシーとエンジンを使い、アロイボディとサイクルフェンダーを取り付けた。しかし不運にも、戦争で優先順位が変わってしまった。レースよりも生き残ることが重要になり、ビジネスを続けるために何でもやった」

ザヌッシが戦中に手がけたプロジェクトには、石炭自動車やLPGシステムがある。戦火が収まると、ワークショップは活況を取り戻した。「イタリア全体がレースをやりたがった。父がエンジンをチューンアップしたフィアット500トポリーノや1100は、大きな改変が認められないカテゴリア・ツーリズモ・ノルマーレ(Categoria TurismoNormale:一般ツーリングカー・カテゴリー)では最速だった」

”驚異の”ザヌッシ1100スポルト

1947〜1955年に、フィオラヴァンテ・ザヌッシは、自身の名を冠した車を製造するという最大の夢を情熱的に追求した。レース用シャシーのプロトタイプを1台(BMWを含む様々なエンジンが搭載された)造る傍ら、標準ボディのレース用への改造も手がけ、フィアット500AにSIATA(Societa Italiana Auto Trasformazioni Accessori)のシリンダーヘッドを組み合わせたこともある(編集翻訳注:SIATAはSVヘッドをOHVに改造するキットを販売していた)。アロイボディは、主に近隣のフラテッリ・ヴェンドラメのワークショップで造られた。

ザヌッシはこの初期の頃に、ひときわ特別なマシンを造り出そうと決意した。ベースはアルファロメオ6C1750コンプレッソーレだ。このドナーカーは、シャシーナンバー0211463で、1929年12月にミラノで登録された。最初のボディ変更が記録されたのは1934年1月で、2座のオープンカーから4座のクローズボディに変わった。数人のオーナーを経て、1951年12月にフィオラヴァンテ・ザヌッシが10万リラで購入した。現在の金額に換算すると、たった1700ユーロだ。製造から22年を経たアルファロメオがどんな状態だったのかは不明だ。 ”0211463”は、1952年10月にボディが再び2座に戻って、オープン・シルーロ・スポルトとして登録された。エンジンは6気筒から4気筒に換装され、課税馬力は19hpから13hpに引き下げられた。

こうしたモディファイなら、取り立てて異例のことではなさそうだ。戦後イタリアのレースコミュニティーでは、ボディやエンジンを変更する例がほかにもあったからだ。だが…「この車の最初の成り立ちには驚くべき点がある。父は、アルファロメオの6気筒ツインカムユニットを、一般的な4気筒ユニットに換装したのではないんだよ」とエツィオは話す。

なんとザヌッシは、オリジナルの6Cエンジンから5本目と6本目のシリンダーを切除して、フィアット1100と同じクラスに出走できるようダウンサイジングしたのである。その結果、排気量1168cc(オリジナルの6気筒は1752cc)のアルファロメオ4気筒エンジンとなった。主流だったフィアット1100は1089ccである。

これが途方もない大仕事だったことは、エンジンについて基本的な知識のある人なら誰でも想像できるだろう。それを、地方の小さなワークショップで、1950年代にやってのけたのだ。エンジンブロックからヘッド、クランクシャフト、カムシャフトまで、すべてを短縮してバランスを取り直す必要があった。むき出しになったパーツは、新たに加工したアルミニウムパネルをボルト留めして覆った。

「私の記憶では、最も苦労したのはクランクシャフトの改変だった。6気筒ではクランクジャーナルが120°だが、4気筒では180°にする必要がある。幾晩も溶接場に泊まり込んで、クランクシャフトをゆっくり熱していった。剛性を損なわずに柔らかくするためだ」とエツィオは振り返る。

「私たちは、新たな潤滑経路も作らなければならなかった。私はまだ若くて細部までは分からなかったし、書き留めたものも一切ないことを考慮に入れる必要はあるけれど、完成したエンジンと父がそれを使う姿を見た記憶がある。二輪用のデロルト製キャブレター4基で燃料を送っていた。まずは、サイクルフェンダーのレースボディを架装した1949年フィアット508Cのシャシーに搭載した。素晴らしいサウンドだったよ」

フィオラヴァンテ・ザヌッシは不屈の精神の持ち主だった。次にはこのプロジェクトの第2の驚異、シャシーに力を注いだ。「父は、まったく新しいフレームを手作業で製作した。4×10cmの角断面の鋼管を使って、サイドメンバーは平行ではなく先端を狭めてタイヤが動くのに必要なスペースを確保した。クロスメンバーはなく、フロアパンにスロットを切り抜いてドライブシャフトを装着すると、それをシートメタルで覆い、構造材に溶接して剛性を確保した。リアアクスルやサスペンションなど、ほぼすべてのメカニカルパーツをこのフレームで支えて、完全にフラットなフロアを実現した。ボディに関しては、1950年代初頭にレース界で流行していたバルケッタスタイルを採用した。これをアルミニウム合金で造り上げたのは、信頼していた地元のフラテッリ・ヴェンドラメのワークショップだ」

これが、ザヌッシ 1100スポルト、シャシーナンバー0211463の複雑で興味深い誕生物語である。

現存するザヌッシの力作

現在、ザヌッシ1100スポルトは、ヴィッラフランカ・ディ・ヴェローナにあるニコリス博物館で見ることができる。完成したときはモディファイしたアルファのエンジンを搭載し、エツィオの記憶では、フィアット1500のトランスミッションと組み合わされていたが、のちにエンジンはチューンアップしたフィアット1100のユニットに換装された。

「まだアルファのエンジンを搭載した状態で売却されたと記憶している。父が亡くなった1960年10月にはもうなかった。しかし、1960年12月の正式な記録によると、順番は逆だったらしい。60年以上も前のことだから、売却の詳細まですべて覚えているわけではないんだよ」とエツィオは話す。

新たなオーナーとなったのは、トレント県に住むアルマンド・アルベルティで、1960年当時は28歳だった。新たな車両登録証が交付され、1961年夏にTN 37289という新しいナンバーが割り振られた。公式書類には、「アルファロメオ・タイプ・ザヌッシ、シルーロ・スポルト2座ボディ、1089ccの4気筒エンジン搭載」と記録されている。

ここで重要なのが排気量で、1949年から製造されたフィアットのタイプ1100Bエンジンとまったく同じである。どうやらザヌッシは、新たに造り上げたシャシーの登録手続きをスピードアップするために、ドナーとなったアルファロメオのシャシーナンバーとそのナンバープレートをそのまま使ったようだ。

これ以降のヒストリーは、ほとんど分かっていない。ただし、1983年にイタリアの車両登録から抹消されている。売買も公道走行の登録も長期間なかったからだ。

ニコリス博物館を運営するシルヴィア・ニコリスは、次のように話している。「父が、いつ、どこでザヌッシを購入したのかは分かりません。しかし、2000年代初頭から私たちの元にありました。購入したときには既に、チューンアップしたフィアット1100の4気筒エンジンとトランスミッションを搭載していました。これが信頼性をおおいに向上させたのは間違いないでしょう。その一方で、父は、人間の優れた技術の発露と考えられる機械なら、何でも収集する人でしたから、モディファイしたアルファエンジンも手に入れて、せめて展示できたらと願っていたはずです。個人的に詳しく調べて、製作者の能力を堪能したかったことでしょう。父をよく知る者として、私は、それがこの車を父が購入した主な理由ではないかと思います。これほど先進的で、外観も性能も素晴らしいマシンを小さな工房で造り上げた人物に、父は敬意を表したかったのです。加えて、ザヌッシと当時のレースシーンとの間に重要な結びつきがあったことも忘れるわけにはいきません。特徴的なバルケッタスタイルは、あの時代のレーシングカーのまさに典型です」

では、実際の走りはどうだろうか。乗り込んでみると、ほとんど地面に座っているのも同然で、頭が完全に飛び出してしまう。小さなウィンドシールドが、多少なりとも保護の役割を果たしたのだとしたら、フィオラヴァンテ・ザヌッシは私よりずっと背が低かったに違いない。フラットなフロアとドライビングポジションは、最初期のジャガーEタイプを思い出させる。決して居心地は悪くない。しかし、スターターボタンを押したら最後、すべてが吹き飛んだ。全身が振動し、エンジンノイズで満たされる。これがモディファイしたアルファエンジンだったら、もっと強烈だったに違いない。

パワーが無限に湧き出すとはいえないが、フィアットの4気筒エンジンは元気な吹け上がりを見せる。軽量な構造なので、スポーティーな挙動が最大限に生かされ、コーナーでも扱いやすい。操作系はすべてスムーズに反応し、コーナリング特性もスロットルペダルで調整できる。シャシーが苦手にするのはバンプだけだ。ザヌッシのハンドリングは、同時代の多くのライバルを上回る。これほど困難なプロジェクトを構想し、自身の小さなワークショップで造り上げた男の技術には感服するしかない。

1952年ザヌッシ1100スポルト


エンジン:1089cc、4気筒、OHV、ウェバー製32DRNキャブレター×2基
最高出力:45bhp/4400rpm 最大トルク:6.4kgm/2800rpm
変速機:前進 4段 MT、後輪駆動 ステアリング:ボール・ナット
サスペンション(前):トランスバースアーム、コイルスプリング、油圧式ダンパー
サスペンション(後)リジッドアクスル、半楕円リーフスプリング、油圧式ダンパー
ブレーキ:4輪:ドラム 車重:790kg 最高速度:約120km/h

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下恵
Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) Translation:Megumi KINOSHITA
Words:Massimo Delbo Photography:Max Serra
取材協力:エツィオ・ザヌッシ、エミリオ・ザノット、ニコリス博物館(museonicolis.com)に感謝する。