基礎化粧品ブランド「NARIA COSMETICS」をプロデュースする実業家でもある鈴木蘭々

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住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、カラオケで歌った曲の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「ドリカムの曲は、今でも聴くし、カラオケに行けば歌います。すると、高校の放課後に友達と遊びに行ったカラオケボックスや、古着店、明治神宮……、ドリカムを聴いていた’90年代の風景も思い出すんです」

そう話すのは、タレントで、基礎化粧品ブランド「NARIA COSMETICS」をプロデュースする実業家でもある鈴木蘭々(47)。

’75年生まれの彼女にとって、’80年代と’90年代の境界線は曖昧だという。

「’80年デビューの聖子ちゃんが、最初の“憧れのアイドル”。キャラは全然違いますが、歌い方は影響を受けているかも。『瑠璃色の地球』(’86年)を歌うと、聖子ちゃんとクセがそっくりだと言われます」

松田聖子に続き、注目したアイドルは中山美穂。

「ランドセルの時間割入れには、ミポリンの写真を。『ツイてるねノッてるね』(’86年)、『50/50』(’87年)、『Rosa』(’91年)など、好きな曲ばかりです」

こうしたアイドルの影響で、芸能界への憧れを強くした。

「とはいえ、子どもだからあまり深く考えているわけではありません。芸能人になるためにはどうしたらいいんだろう? と考えていたとき、オーディション雑誌で“原宿でスカウトされたラッキーガール”という記事をたまたま見て“そうだ、原宿へ行こう”って(笑)」

中1の春休みに友人と竹下通りでタレントショップをめぐり、クレープを食べながら歩いていると、次々に『ちょっといいですか?』とスカウトマンたちが名刺を差し出してきた。

「景気のよかった時代なので、芸能界でも多くの新人が求められていたんでしょうね。原宿に行ったその日だけで10枚くらい名刺をもらったんです。だまされる可能性もあるので、事務所の対応を見極めようと自分で電話して、最終的に候補として残ったのが大手芸能プロと、小さなモデル事務所でした」

より熱心に誘ってくれたモデル事務所のほうに所属することにした蘭々。秋田書店が主催するミスチャンピオンにチャレンジできることも決め手となった。

「文具メーカーのぺんてるがスポンサーだったので『芸能界なんてとんでもない』という母を説得できると思ったんです。母は絵描きで、ペんてるは子どものころからお世話になっているメーカー。予想どおり『それならしょうがない』とコンテストに出ることを許してくれました」

中2の夏に行われた第1回ミスチャンピオンで準グランプリに輝き、秋には同誌の巻頭グラビアを飾った。同じ年の’89年、資生堂「エクボ」のCMにも抜擢される。

「資生堂1社提供の、ティーン向け30分番組でだけ放送されるCMだったのですが、そのときの監督さんに気に入ってもらえ、次の仕事につながりました」

■歌ウマな友達とカラオケボックスでドリカムを熱唱

リップクリームやファストフードのCMの仕事が決まり、高校は芸能活動に理解ある学校を選択。

「午前で終わる学校だったので、午後はカラオケボックスに行っていました」

カラオケでは’80年代から’90年代にかけてのドリカムの名曲を、仲間内で歌い合うのが定番だった。

「クラスには東芝EMI(当時)から歌手デビューしていたコや、B’zやZARDが所属するレコード会社でデビューを控えているコもいて、歌に自信がある人ばかり。だから難度の高いドリカムの曲を歌いたがったんでしょうね。カラオケでは同じ曲を避けたりするものですが、『未来予想図II』(’89年)は本当にはやっていて、全員がそれぞれ歌っていました」

ドリカムの代表曲『決戦は金曜日』(’92年)も忘れられない1曲。

「自分の中でツボっちゃって。イントロから盛り上がるし、曲の最後に『ライララ〜』と派手なフェイクが入る。それをひたすらマネして歌っていました」

歌手になりたい気持ちが強く、歌詞も書きためていたという。

「ドリカムの曲は、頭の中で情景が浮かび上がる歌詞で、まるで映画を見ているよう。でも、私の場合は疑問形が多くて『人間はなぜ、正直になったり噓をついたり、バランスが悪いのか?』とか。今振り返ると恥ずかしい詞をノートに書き連ねていました」

同じように歌手を目指す同級生に相談したこともあった。

「それで紹介してくれた先生に、練習曲としてすすめられたのが『銀河への船』(’91年)。“この曲を歌えるようになる”というのを目標にしていました。私の歌の原点になった曲です」

女優業やバラエティ番組で活躍の場を広げ、初めての帯番組『ポンキッキーズ』(第1期、’93〜’01年・フジテレビ系)では、安室奈美恵とユニット「シスターラビッツ」を結成した。

「よく『安室ちゃんと遊びに行きましたか?』って聞かれますが、お互い、スケジュールの空きがないくらいに忙しかったんです」

こうした努力が実り、’95年、『泣かないぞェ』で念願の歌手デビューを果たす。8枚目のシングルとなった『ポンキッキーズ』エンディング曲の『キミとボク』(’98年)は、今でも玄人ウケする名曲と言われている。

’90年代後半にはアメリカ留学も経験。’14年には基礎化粧品ブランドを立ち上げ、実業家に軸足を置いた。

「’18年、『キミとボク』が好きだったというミュージシャンからお誘いを受け、バースデーライブをすることになりました。作詞にも挑戦しましたが、思い浮かぶことは若いころに書いていた“疑問形”で、あまり変化はないような(笑)」

コロナ禍で中断した時期があったものの、今年はバースデーライブを無事に開催することができた。

「歌の仕事を再開するとは予想していませんでしたが、人に喜んでもらうことがモチベーションなので、今では“次回は、どんなライブにしようか”と考えるのが楽しみ。来年はバラード中心にしようかな」

約20年ぶりの歌手活動の原点には、カラオケや歌手になるためのレッスンで歌ったドリカムの曲があったのだ。

【PROFILE】

鈴木蘭々

’75年、東京都生まれ。第1回ミスチャンピオン・準グランプリ獲得後、バラエティ番組やCMで活躍。’94年より『ポンキッキーズ』にレギュラー出演し、’96年にはCM女王として12社のCMに出演した。’14年に自身の会社を設立し、基礎化粧品のプロデュースを始める