ミュンヘン五輪の柔道93キロ級金メダリスト、ショータ・チョチョシビリと対戦した猪木(写真:©Essei Hara)

「モハメド・アリとの世紀の一戦」「BI砲が復活した夢のオールスター戦」「第1回IWGPで起きた舌出し失神事件」「マサ斎藤との巌流島決戦」「キューバのカストロ議長との会談」「イラクの邦人人質解放」「北朝鮮で開催された平和の祭典」――。アントニオ猪木氏を50年間撮り続けたカメラマン・原悦生さんの著書『「猪木」』から一部抜粋し、プロレスを通じた平和活動に挑んできた猪木氏がソ連の柔道家やアマレス選手を東京ドームのリングに上げ、日米ソ3カ国対抗戦を実現させるまでの経緯を紹介します。

ソ連にプロレスラーを誕生させるプラン

この頃、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長はペレストロイカやグラスノスチといった政策を掲げて、民主主義への移行、情報公開を推し進めていた。

そんな中、1988年に猪木はソ連にプロレスラーを誕生させて、日・米・ソで戦うというプランを思いつく。また、映画『ロッキー』のストーリーのようにソ連人ヘビー級ボクサーを誕生させて、アメリカの世界ヘビー級王者と対戦させるというプランもあった。

猪木は「観客を掌に乗せる」という表現で、プロレスという資本主義世界のエンターテインメントスポーツをただ勝つことしか知らない選手たちに説明した。

グルジア(現在の表記はジョージア)で行われたトレーニングにはマサ斎藤や馳浩らがコーチ役で参加し、現地の選手たちも徐々にそれを理解し始めていた。

猪木は帰国後、マスコミに囲まれた際に現地の選手たちに何を教えたのかを聞かれ、プロレスについて次のような説明をしたと答えていた。

「受け身は自分を守るだけのものではない。優れた受け身は、かけられた技が綺麗に見える。攻撃は観客に勇気と力を与える。相手にケガをさせないのもプロフェッショナルとしての技術だ。プロレスの最大の魅力は、人間が元来持っている怒りや苦しみといった感情を表現することにある。漢字の狄有瓩箸い字は、互いに支え合っている。感動的な試合や激しい試合は、戦うレスラー同士の信頼関係から生まれる」

当時、ソ連は自国のスポーツ選手を海外に猴⊇亅瓩垢襪砲△燭辰董SOVインタースポーツなるエージェントを立ち上げて、相手側に高額のギャランティを要求していた。猪木と新日本プロレスに対しても、それと同様に高額のギャラを要求していて、さらにはゲート収入のパーセンテージまで上乗せしようとしてきた。

本人の話によると、猪木はスポーツ交流でソ連の鉄のカーテンを少しでも押し開きたいと考えていたが、会話の中に「交流」とか「友好」といった言葉はなく、すべてが金の話だったそうだ。

「日本人はソ連に対して悪い印象を持っています」

その後も我慢強く交渉したが、進展しない話し合いが続き、最終的に「交渉決裂」を伝えるためSOVインタースポーツの担当者にこんなことを言った。

「こちらは民間人だから東京ドームの興行の中止は3億円くらいの赤字になるが、それだけで済む。でも、あなたたちは国家の代表だ。このままではあなたたちの顔は潰れ、ただでは済まないと思いますよ」

さらに猪木はサインされることがなかった契約書を破り捨てて、ホテルに戻ったという。これはギャンブルだった。相手がどう出てくるかは、わからない。でも、呑めないものは呑めない、ということである。

「バグダーノフ将軍があなたに会いたいと言っている」

しばらくして、SOVインタースポーツの関係者が猪木の部屋を訪ねてきた。バグダーノフ将軍は内務省のナンバー2で、ソ連柔道連盟の会長でもあった。

「私はプロモーターである以上、お金は稼ぎたい。でも、彼らを日本に招聘する理由はそれだけではない。残念ですが、日本人はソ連に対して悪い印象を持っています。私はこの機会にソ連にはこんなすばらしい格闘家がいるということを日本はもちろん、世界にアピールしたい。それなのに、あなたたちはお金の話しかしない」

静かに猪木の話を聞いてきたバグダーノフ将軍が口を開いた。

「わかりました。私の権限で選手たちを日本に送ります。お金の話はイベントが成功した後にしましょう」

こうして、レッドブル軍団は日本にやって来ることになる。

1989年4月24日、『格闘衛星闘強導夢』と銘打たれた初めての東京ドーム大会は5万3800人の大観衆を集め、ここから日本で「ドームプロレス」が始まる。それと同時に、この大会は猪木の「環状線理論」を証明するイベントになった。

「プロレスファンだけだと、ドームは埋まらない。それは環状線の内側にいる既存のファンしか見えていないからだ。その輪を外に広げれば、そこには多くの観客がいる。それをどう引き込むかを考えろ」

朝刊スポーツ紙も、この東京ドーム大会を大きく報じた。

チョチョシビリ戦は1回目の猪木の引退試合

当日、猪木はノーロープの円形リングで1972年ミュンヘン五輪の柔道93キロ級金メダリスト、ショータ・チョチョシビリと対戦した。

これには、ちょっとした逸話がある。偶然だが、私はアエロフロート機内でモスクワまで猪木と一緒になった。猪木はグルジアに向かう途中で、私はイタリアでサッカーの取材だった。

幸いファーストクラスにいる猪木の隣の席が空いていたので、私はそこに座り食事の後に雑談をしていると、プロレスのリングの話になった。

「リングだから、語源は元々は牘澂瓩任靴腓ΑB臉里離椒シングだって、街のケンカだって、丸い人垣の中で戦っていた。その後、見せるためにロープを張る必要があってリングは四角になった。六角形や八角形のリングは作れても、ロープを円状に張ることはできないですよね」

私は猪木に、そんなことを言った。

アマチュアレスリングも戦いのスペースは円で、相撲の土俵も円だ。「円状にロープを張ることができないなら、取ってしまえばいい」というのは猪木の発想だったのだろう。

こうして、ノーロープの円形リングは出来上がった。4本の鉄柱はカバーで覆われていた。ロープのないリングは、プロレスよりも柔道の試合場に近い。猪木はあえてチョチョシビリに有利な条件を提供したことになる。

そこには戦いの原点があるようにも思えた。後にUFCでオクタゴンと呼ばれる八角形の金網を張ったリングも生まれたが、猪木は金網だけは受け入れなかった。「金網は表情がお客さんから見えないから」というのが理由だった。

この日、チョチョシビリに腕を攻められた猪木は柔道着に噛みついた。手が使えなければ、口がある。試合のルールに柔道着に噛みついてはいけないという項目はなかった。というより、事前にそんな犢況皚瓩鯀枋蠅垢訖祐屬呂い覆い世蹐Αこの発想力が猪木の魅力だ。そのシーンは、まるでストップモーションのように私の脳裏に焼き付いている。

そして、最後は猪木がチョチョシビリの裏投げ3連発を浴びて、異種格闘技戦で初めて黒星を喫した。かつてウイリエム・ルスカをバックドロップ3連発で倒した男は、十分に歳を重ねていた。私は、このチョチョシビリ戦が1回目の猪木の引退試合だと今でも思っている。

猪木が秘密警察のホテルに泊まった日

ところで、猪木はソ連に行った際、KGB(秘密警察)のホテルに泊まったことがあるそうだ。

このKGBでもアントニオ猪木は伝説の男だった。やはりモハメド・アリと戦ったことは、ここでも威力を発揮していた。格闘技はKGBの中では絶対的なもので、彼らの猪木に対する憧れは増幅していたようだ。猪木がKGBの養成学校を訪ねたときも、選ばれた人間である生徒たちは神様でも見るような目で猪木の質問に答えていたという。

1989年11月9日、ドイツを東西に分けていたベルリンの壁が崩壊する。そんな中、猪木は大阪城ホールでのチョチョシビリとの再戦を経て、12月にモスクワのレーニン運動公園内にあるルイージニキ室内競技場でソ連初のプロレス興行を開催した。

「トイレットペーパーは日本から持って行ったほうがいいですよ。向こうに、ピンクの固いのはありますけれどね」

同行取材に出発する前に、馳浩からそう言われた。グルジアに行った時に難儀したのだろう。

モスクワのシェレメーチェボ空港に着くと、パトカーの先導付きでホテルに案内された。市内の移動も、会場への移動も、すべて同じように先導してくれる。

選手たちと一緒に街中に出ると、ルーブルが価値のない時代で土産物店ではUSドルしか受け取らなかった。

橋本真也は零下10度でもカメラを意識してか上半身裸になってポーズを取り、モスクワっ子を驚かせていた。長州力はクレムリンのある赤の広場に着くと、やたらとビデオカメラを回していたが、寒すぎてバッテリーが低下してしまい困り顔になっていた。

12月31日、試合会場を埋めたモスクワっ子は初めて見ることになる生のプロレスに興味津々だった。

メインイベントで猪木&チョチョシビリがマサ斎藤&ブラッド・レイガンスに勝利すると、観客はリングに上がって来て猪木にサインを求めていた。モスクワ大会は大成功に終わった。

猪木が作家・佐藤優さんに伝えた言葉

大会終了後、レーニン運動公園内のレストランでは年越しの宴が催された。レスラーやイベント関係者も参加して、国家スポーツ委員会の面々も笑顔だった。

バグダーノフ将軍夫妻も猪木のところに近づいてきて、大会の成功を祝った。ウォッカでの乾杯が繰り返され、それは年が明けても続いた。さすがに酔ったのか、コサックダンスを踊る猪木の足が少しもつれている。その場では、誰もが陽気だった。


議員時代の猪木のアテンドを任されていたのは、後に作家として活躍するモスクワの日本大使館で3等書記官をしていた佐藤優さんだった。ある日、猪木は佐藤さんにこう言ったという。

「役に立てるならば、俺を使ってくれ。あなたはロシアの地べたをはいつくばって情報を集めているようだから、きっと俺を上手に使うことができるよ」

佐藤さんは、この猪木の言葉を実行に移した。佐藤さんには、会いたい人物がいた。ボリス・エリツィン大統領の側近に、シャミール・タルピシチェフ・スポーツ担当大統領顧問がいた。佐藤さんが「アントニオ猪木があなたに会いたいと言っている」と伝えると、タルピシチェフはすぐにOKを出した。

エリツィン大統領の執務室の隣が彼の部屋で、それから佐藤さんは爛レムリンに出入りができる日本人瓩砲覆辰燭箸いΑ「猪木」という名前の効力だった。

これが猪木ルートである。猪木ルートというのは漠然としていて、知らない人にとっては奇異に映るかもしれない。だが、本当はこのルートを使わない手はないのだ。

北朝鮮も同じである。「俺を使ってくれ」と猪木自身が言っているのだから。

(原悦生 : 写真家)