日本女子バレー伝説のエース
木村沙織インタビュー 中編 前編から読む>>

 高校生でアテネ五輪に出場した木村沙織は、Vリーグの東レアローズでも中心選手として活躍し、北京五輪、ロンドン五輪にも連続で出場した。

 国際大会で結果を残し、「メダルを獲る」ことを目標に臨んだロンドン五輪準々決勝の中国戦では、自身の調子を見極めてある決意をして戦っていたという。その時の様子や、ロンドン五輪後にトルコリーグでプレーしていた際に眞鍋政義監督(当時)から告げられた「予想外の言葉」を明かした。


日本のエースとしてロンドン五輪を戦った木村沙織 photo by Ishijima Michi

――2008年の北京五輪は、アテネ五輪と同じ5位。その結果をどう受け止めましたか?

「引退してしばらく経ったから言えることかもしれませんが、まだ世界のトップの国々とは差があるな、と思いながら戦っていました。大会期間中のインタビューなどで『目標は?』と聞かれ際に『金メダルです』と答えてはいましたが、少しそれを言いにくくて。言いにくいということは、自分たちにその実力がないとわかっているということですよね。

 毎日一緒に練習して、もちろんオリンピックで勝つためにやっていたけど、実際にどういうバレーをすれば相手が崩れるかという具体的なイメージ、手応えが掴みきれていませんでした。最終的な5位という順位も、いいのか悪いのかわからない、というのが率直な気持ちでしたね」

――その手応えを掴んだ試合などはありますか?

「2010年の世界選手権で銅メダルを獲れたことです。メダル争いを勝ち抜いた経験ができたから、『頑張れば、オリンピックでもメダルが獲れるかもしれない』と思うことができました。もし、3位決定戦のアメリカとの試合に負けていたら、そのイメージを明確にできないままロンドン五輪を迎えることになったと思います。『あと少しでメダルに届く』と『メダルに届いた』では経験値がまったく違う。それまで、国際大会で結果を残せていなかったので、なおさらですね」

――翌年のW杯はポイント差で4位になったものの、8勝3敗という成績は3位の中国と同じでした。

「W杯ではメダルを獲れませんでしたが、ブラジルにセットカウント3−0で勝ったり、それまで1セットを取ることさえ難しかった強豪国を相手に、互角以上に戦うことができるようになったんです。試合を重ねるごとに自信がついてきたというか、『いい感じにきているな』と感じました。北京五輪が終わって監督が眞鍋(政義)さんに代わり、初めて代表メンバーが集合した時から、『絶対にこのチームで、オリンピックのメダルを獲る』ということを目標にしていましたが、それに突き進めるだけの準備ができていたと思います」


記憶を辿りながら当時の裏話を明かした photo by Matsunaga Koki

――当時、セッターの竹下佳江さんと、トスの調整をしたと聞きますが、どういったやりとりがあったんですか?

「私はずっと、自分がどういうトスが得意で、決定力が上がるのかということがわかっていませんでした。だから『どんなトスがいい?』と聞かれても、うまく答えられなくて......。いつもセッター任せで『どんなトスでも全部打ちます』という感じでしたから、どんなトスを上げたらいいのか困らせていたでしょうね。

 ただ、ロンドン五輪に向けてレフトのトス、コンビのトスをもっと速くという傾向が強くなって、スパイクのタイミングがズレたり、コースが狭まったりということがありましたが、『相手ブロックに準備をする時間を与えることになっても、私個人としては高いトスで間を作ってくれたほうがいい』ということを、テンさん(竹下の愛称)や眞鍋監督とよく話し合っていたのを思い出します」

――ロンドン五輪で一番印象に残っているのは......

「準々決勝の中国戦ですね」

――やはりその大一番ですね。試合中に意識していたこと、チームメイトのやりとりなどは覚えていますか?
 
「必死だったのであまり覚えてないですね。どっちが勝つか最後までわからなかったですし、私自身、ロンドンに入ってから調子がそんなによくなくて不安もあったんです。『中国戦だけは調子が上がってくれ』って、試合前に神頼みしていました(笑)」

――フルセットになった中国戦では、木村さんは江畑幸子さんと並んでチーム最多の33得点を挙げました。神頼みのとおり、調子が上がったんですか?

「そんなにうまくプレーができた印象はありません。それまでの試合でもそうだったのですが、特にストレート打ちの調子が悪かったので、どんなトスがきても、ほぼクロスに打ちました。通常の試合だったら攻撃の幅を広げるために、試合の中で『次はこっちに打って、相手のブロッカーがこっちに動いてきたらこう打って』といったストーリーというか、組み立てを自分でイメージするものなんですが......自分のキャリアで初めてと言っていいくらい、ずっとクロスに決め打ちをしていました」

――それだけクロスに打っていたら、それをマークされてしまうのでは、と思うのですが。

「なぜか最後まで、中国の選手はクロスを絞めてこなかったんですよね。そういうデータがあったのかもしれません。ただ、ちょっとストレートを空けられて、ブロックがいい中国の選手がクロスを止めにきても、私はストレートには打たなかったと思います。『ストレートに切り替えてミスをするくらいなら、クロスに思い切り打ってブロックされたほうがマシ』と思っていましたから。だから、途中からクロスをマークされたら、もっと難しい試合になったかもしれません」

――準決勝ではブラジルに敗れるものの、3位決定戦の韓国戦に勝って銅メダル。28年ぶりのメダル獲得で、チームの目標を達成しましたね。

「その韓国戦は負ける気がしなかったです。みんながいつもどおりに、力まずにプレーすれば勝てるだろうという確信がありました。実際に試合でも、チームがすごくリラックスしていた感じがあります。私も『みんながいれば絶対勝てる』という安心感がありました」

――確かに、中国戦では木村さんと江畑さんが活躍したのに対し、韓国戦は迫田さおりさんと新鍋理沙さんの奮闘が目立っていた印象があります。

「そうですね。どんな戦術でも、誰にトスが集まっても勝つだろうと思っていました。そのくらい、チーム全体が充実していたということだと思います」

――ロンドン五輪が終わり、木村さんはトルコリーグのワクフバンク・テュルクテレコムというチームに移籍しました。海外でのプレーはいかがでしたか?
 
「当然ですが、日本とは生活がまったく変わりましたね。そのチームは世界中のエースが集まっていて、プロとしてプレーしている選手が多く、練習からすごく刺激的でした。毎日が国際大会での試合のようで、サーブやスパイクをレシーブする時も重いし、痛かった。

 コミュニケーションは難しかったですけど、監督も選手も英語を話す人が多かったですし、ボールが動いてしまえば何を言っているかはなんとなくわかりました。練習のほうが気楽で、日常生活でのコミュニケーションのほうが難しかったです。相手が何を言っているかはわからないけど、笑顔で『オッケー』と乗り切っていました(笑)。

とにかくすべてが新鮮で楽しかったです。Vリーグで長くプレーして、3大会連続でオリンピックに出場してメダルも獲れて、海外でもプレーできた。だからその1年で引退しようと思っていました」

――そうなんですね。2013年には日本代表のキャプテンに就任していますが、心変わりがあったんですか?

「いえ、家族やいろんな方にその意志を伝えていました。そんな時にちょうど眞鍋さんがトルコに試合を見に来たので、眞鍋さんにも『この1年で引退しようと思います』と言ったんです。そうしたら、『日本代表のキャプテンをお願いしたい』と返されて。予想外の言葉すぎて『あれっ』となりましたし、すぐには承諾できませんでしたよ(笑)。

 ただ、そう言ってもらえて『また違う自分になれるかもしれない』という新たな目標ができたという感じでしょうか。バレーで全部を経験したつもりが、まだキャプテンが残っていたかと。もしキャプテンを引き受けたら、日本代表はどんなチームになるだろうとイメージし始めた時に、『もう自分の意識が"次"に向かっている』と感じたので、『もうちょっと頑張ろう』とキャプテンを引き受けることにしました」

(後編:東京五輪で注目する「後輩」たち)