日本女子バレー伝説のエース
木村沙織インタビュー 前編

 長らく、女子バレー日本代表の絶対エースとして活躍した木村沙織。2016年リオ五輪まで4大会連続でオリンピックに出場し、2012年ロンドン五輪では28年ぶりのメダル獲得(銅メダル)に大きく貢献した。

 初めて日の丸を背負ったのは下北沢成徳高校2年生の時。いきなり同年の世界大会で活躍すると、弾けるような笑顔の「スーパー高校生」に注目が集まった。人気が高まっていくことを、本人はどう感じていたのか。自身のバレー人生と共に振り返った。


長らく日本のエースとして活躍した木村沙織 photo by Matsunaga Koki

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――木村さんがバレーを始めたのはいつですか?

「小学校2年生の時からですね。母がママさんバレーをやっていて、それにくっついて遊びに行っていたんです。それである日、秋川JVCというクラブの関係者の方に誘われて、という流れです」

――その頃はあまり背が高くなく、それでレシーブ練習をやるようになったというお話も聞きますが。

「小学校時代の身長は......6年生の時に165cm前後くらいだったかな? バレー選手としてはそこまで大きくないですよね。そのクラブではもうひとり、私と同じくらいの身長の子がいて、レフトとライトを担っていました。

 秋川JVCの監督は基礎練習に力を入れている方だったので、『背が高いからスパイク練習を中心に』ということはなく、全員が守備の練習をしっかりやって、スパイクも打ってという練習法でした。そこでの"土台"が、あとで活きたんじゃないかと思います」

――成徳学園中学校に進んで以降、だんだんと身長が伸びていったんですね。

「そうですね。中学と高校で20cmぐらい伸びました。正直なところ、もうちょっと早めに止まってほしかったです(笑)。バレーにはすごく役立ちましたけど、それ以外の部分では恥ずかしいこともあったので。特に女子高生の時とかは、電車に乗るとかなり目立っていましたし、オシャレもしにくかったですから」


下北沢成徳時代もエースとして活躍 photo by Sakamoto Kiyoshi

――複雑な乙女心ですね(笑)。下北沢成徳高校では多くのタイトルを手にしましたが、どんな練習が印象に残っていますか?

「当時の成徳には中学校にもバレー部があって、高校生と一緒に練習していました。ボールは5号球、ネットも高校の試合と同じ高さでしたね。その6年間で技術なども高められたんですが、もっとも鍛えられたのは自主性です。

 うまくなるためにどんな練習が必要なのか。試合で課題が見つかったから、明日は何時から朝練をしようか。そういった計画を、自分で立てられるようにするのがバレー部の指導方針でしたからね。誰かに言われてからやるのではなく、自分で考えて動くという能力は、選手としてすごく大事だと思います」

――1年生から試合に出始めて、2003年の春高バレー(当時は3月開催)で優勝。2年生になってからの同年8月のインターハイは3位でしたが、大会終了後にシニアの日本代表に初招集されます。その時はどんな気持ちでしたか?

「北海道の芦別市で合宿していたチームに合流したんですが、テレビでプレーを見ていた方たちを目の前に『うわぁ』となっていて、ただのファン状態でした。サインもしてもらいましたよ(笑)。一緒に練習できることはうれしかったのですが、それ以降も日本代表に呼ばれるとは思っていなかったので、『こんな機会はもうないだろうから、いろいろ吸収して帰ろう』と思っていました」

――9月のアジア選手権で代表デビューし、11月のW杯にも出場。国際舞台で緊張などはしませんでしたか?

「先輩たちの背中を必死に追いかけていて、あまりプレッシャーは感じていなかったと思います。その頃は、W杯が3大大会(W杯、世界選手権、オリンピック)のひとつだといった、大会の大きさや重要さがあまりわかっていなかったのですが、それもプラスに働いたのかもしれません(笑)」

――翌2004年のアテネ五輪の最終予選では初戦から活躍するなど、出場権獲得に大きく貢献しました。ひとつ前のシドニー五輪の出場を逃していたことから、並々ならぬ決意で戦っていた選手もいたようですが、木村さんはどうでしたか?

「シドニー五輪の出場権を逃した選手たちの思いを理解しきれていなかったというか、今思うと"気楽"だったなと思います。伸び伸びと、毎日『楽しい』と思いながらプレーをしていましたが、すごく先輩方に迷惑をかけていたんじゃないかと......あらためて振り返るとそう思います」


代表デビューは高校2年時の2003年 photo by Sakamoto Kiyoshi

――アテネ五輪の本戦は5位。木村さんは腰の状態が悪く、あまり出場機会がなく大会を終えましたが、決勝の中国vsロシアの試合を見に行ったそうですね。

「チームでまとまって、というわけではなく、みんなバラバラで見に行きました。私は(大山)加奈さんに誘ってもらって、2人で。試合は中国がセットカウント3−2で勝ちましたが、それを見て『アジアのチームでも、金メダルを獲れるんだ』と思いました。体格はロシア選手のほうが大きかったのに、そのチームに勝ったことに気持ちが奮い立ちました。次の北京五輪は、もっと頑張ろうと」

――その翌年、高校卒業と共に東レアローズに入団しますが、どういった経緯があったんでしょうか。

「最初は、(アテネ五輪で主将を務めた)吉原知子さんが所属していたパイオニアに入りたいと思っていたんです。でも、東レの担当者の方が毎日のように高校まで足を運んで、練習を見にきてくれた。バレー部の監督も推してくれたんですが、当時の私は天邪鬼だったというか、『そこまでされると、逆に行きたくない』となって渋っていた時期がありましたね(笑)。結局は東レに入り、1年目から試合に出させていただいて、そこからリーグ優勝などいろんな経験をさせていただきました」

――その後、東レでも日本代表でもエースに成長し、時にはアイドル的な注目のされ方をすることもあったと思います。取材なども「スーパー高校生」と言われた高校時代から多くなっていったと思うのですが、重荷に感じることはなかったですか?

「日本代表に初めて呼ばれた頃は、まったくなかったです。注目されているのかどうか気にしたことがなくて。バレーをすることに必死すぎて、『試合、テレビで見たよ』と言われても、『そうなんだ』くらいにしか思いませんでした」

――それでも、日本代表での試合が増えるごとに注目度も上がって、嫌でも意識してしまうことはありませんでしたか?

「高校時代の最後のほうの試合では、試合の終盤で少しだけ出てサーブがたまたま決まったんですが、次の日の新聞に『木村沙織の大活躍で勝利』と書かれていたのには、さすがに違和感がありましたかね。当時、私はケガの影響もあって出場機会が限られていましたし。ちょっと過剰かな、ということはその頃から感じ始めていたことではあります。

 ただ、それを気にしすぎてプレッシャーになったり、気持ちを乱したりといったことはなかったです。2017年に引退するまで、常に『バレーが第一』でした」

(中編:ロンドン五輪中国戦の不調と「キャリアで初めて」のプレー)