あのスーパースターはいま(1)

「ロベルト・バッジョを音楽にたとえるならジャズかブルースだろう」

 あるイタリアのベテラン記者はそう言っていた。カルチョ(イタリアのサッカー)がまだ今よりもずっと自由だった時代、ファンタジスタが輝いていた時代、「ディヴィン・コディーノ――神のポニーテール」とイタリアの人々は親しみとリスペクトを込めてバッジョを呼んだ。彼は一選手にとどまらず、自由なサッカーの象徴でもあった。

 ただし、指揮者が率いるオーケストラでは傑出した個は嫌われる。

 バッジョがプレーした90年代は、カルチョが変貌を始めた時代でもあった。個ではなく組織を重視するゾーンディフェンスがもてはやされ、チームを指揮する監督たちが名を馳せる。アリゴ・サッキ、マルチェロ・リッピ、ファビオ・カペッロ――。そしてバッジョは多くの監督たちと衝突してきた。

 一時代を築いた多くの選手は、引退後もサッカー関係の仕事をしていることがほとんどだ。監督、チーム幹部、テレビ解説者......。しかし2004年にブレシアで引退して以来、バッジョが表舞台に出てくることはほとんどなかった。


イタリア代表やユベントス、ミランで活躍した1990年代を代表するスーパースター、ロベルト・バッジョ

「選手時代の20年間、ほとんど家族と一緒に過ごせる時間はなかった。だから今はできるだけ彼らのそばにいたい」

 理由を聞かれると、バッジョはそう答えるのが常だった。ただ、一度だけ彼がサッカー界に戻ったことがある。2010年の8月、FIGC(イタリアサッカー協会)から「テクニカル部門の責任者に」と請われ、バッジョはこれを引き受けた。

 リッピ率いるイタリア代表が、前回のチャンピオンであったにもかかわらず、同年の南アフリカW杯のグループリーグで敗退したばかりだった。イタリアサッカー界には抜本的な改革が必要だという世論が巻き起こり、FIGCも何らかの手を打ってみせる必要があった。代表の不振は、若いイタリア選手の育成を疎かにしているからだという声が多かったため、特にユース年代に大きなテコ入れをすることにした。

 サッキをユースのテクニカルコーディネーターに据え、往年のスター選手ジャンニ・リベラをユーススクールの責任者に迎えるなど、ドリームチームのような人材を集めた。バッジョもそのうちのひとりであった。過去に対立があったとはいえ、サッキも(形だけかもしれないが)バッジョの就任を歓迎した。

 数年間の充電期間を経て、バッジョは再びサッカーに関わる気力を取り戻していた。少し前から監督のライセンス取得コースにも通っていた。しかし、何より彼がそのポストを受け入れたのは、若い才能を伸ばし、十分に発揮してほしいと思ったからだ。背景にはバッジョ自身の苦い経験もあっただろう。

 就任から数カ月後には、バッジョは900ページにも及ぶプロジェクト提案書を書き上げる。タイトルは「コヴェルチャーノ・テクニカル部門の新たな活動」。イタリアを100の地区に分け、それぞれの地区に信頼すべき監督を何人か派遣し、その地区で行なわれる試合をすべて見ることで、才能を見逃さないようにすることを提案した。また、緻密な情報網を作り、優秀な選手たちに適切な環境とチャンスを与えることも強調。同時に若手育成機関のレベルを底上げし、低年齢でも元プロ選手などに指導を任せることなどを盛り込んだ。

 バッジョが最も主張したかったのは、"すべては才能を基本"とすることだった。フィジカルやテクニックを鍛えるよりも、まず才能を伸ばすことが重要であるとした。バッジョがこんな提案をしたのは、なによりカルチョにファンタジーを取り戻したかったからだと思う。

 だが、彼の意見は、ほとんど無視されることになった。その理由は、あまりにも費用や人手がかかること、そして何より彼の提言が、従来からの利権を脅かすものであったからだ。バッジョの提案は、彼が所属するテクニカル部門の枠から大きくはみ出していた。

 もちろん、バッジョの書いたものがすべて正しいというわけではないが、吟味するに値する点はたくさんあった。しかしその内容が、協会の中で議論されることさえなかった。バッジョは自分がただのお飾りに過ぎないと感じ、2013年の1月、失望とともに協会を去った。

 しかし、描いたサッカーの未来を、そのままお蔵入りさせるのは悔しかったのだろう。辞任直後にゲスト出演したサンレモ音楽祭(イタリア最大の音楽祭)で、バッジョは若者に向けて手紙という形でメッセージを送った。

 その中でバッジョは、若者に大切なのは情熱、喜び、勇気、成功、犠牲だとし、「努力する者には、いつかの希望がある、自分たちの夢を抱きしめ、それに続いてほしい。本当のヒーローとは日々を精いっぱい生きる人のことだ。君たちもぜひそんなヒーローになってほしい」と結んでいる。

 現在、バッジョは故郷のカルドーニョに近い、ヴィチェンツァ郊外のアルタヴィッラ・ヴィチェンティーナに家族と住んでいる。時間があれば趣味のハンティングにも出かける。バッジョがハンティング好きなのは父親譲りだ。その理由を彼自身はこう説明している。

「僕は8人兄弟の6番目で、ハンティングは父親と過ごせる数少ない時間だった。それになにより自然の中にいると、自分が自分であることができる」

 バッジョと同年代の元選手でも、多くがSNSのアカウントを持っている昨今だが、バッジョはツイッターもインスタグラムもやっていない。しかし、かわりに28歳になる彼の長女、ヴァレンティーナ・バッジョが頻繁に彼の近況を教えてくれる。つい最近ではアウトドアに出かけるバッジョの写真を投稿し、その車が古い形のフィアット・パンダ4×4だったことから、一部のカーマニアを喜ばせた。

 またヴァレンティーナは最近の近況だけでなく、選手の頃のバッジョの秘話も教えてくれる。94年のアメリカW杯中に、バッジョに「君たちが近くに必要だ」と言われて急遽、家族でアメリカに渡ったこと。2002年日韓W杯の代表に呼ばれなかった時のバッジョの失望。現役最後の頃は膝がもうボロボロで、彼女がつらそうなバッジョに「私の足をあげる」と言ったこと――。

 イタリアではこうした本人や家族の証言を基にしたバッジョの伝記映画がネットフリックスで配信される予定だ。タイトルは『ディヴィン・コディーノ』である。

 現役時代から今に至るまで、何回か彼を取材したことがある。最後に会ったのは2年前。彼がスポンサー契約をしている企業のイベントで来日した時だ。イベントが終わった後、ウェアラブルカメラを買いたいというバッジョ(バッジョは大のカメラ好きでもある)と渋谷の街に出て、居酒屋で食事をした。

 話はまず、カズに及んだ。カズとは彼がイタリアでプレーしていた時からの知り合いで、この前日にもわざわざホテルまで訪ねてきてくれたという。

「彼がまだ現役でやっているのは本当に驚きだよ」

 バッジョは言う。実はバッジョとカズは同い年だ。

「私の膝はもうぼろぼろで、引退をしてから一度も、そう、本当に一度も試合をしたことはない」

 バッジョはどこか寂しげだった。

「はっきり言ってうらやましいよ」

 ビールを飲んで少し饒舌になると、話は若手育成のことに及んだ。

「子供は何よりも先にボールとのフィーリングを覚えるべきだ。ボールは最高の友達だと心から感じる必要がある。もしそれを子供の頃に獲得していたら、大きくなってもその関係は変わらず、必ずドリブルにも違いが出てくる」

 そしてこれからの夢を語ってくれた。

「サッカー協会をやめても、あの時書き上げたプロジェクトはあきらめてはいない。だから、そんなサッカースクールを作ろうかとも思った。しかし、個人でやるスクールはたかが知れているし、直接指導するにも限りがある。そこで考えついたんだ。私の指導理念に基づく指導をしてくれるコーチを育てたらってね。今はそういうコーチ育成のスクールを作りたいと考えているんだ」