河野太郎行政改革担当大臣が打ち出した「脱ハンコ」だが、不要になったハンコはどこへいくのか。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「三文判は捨てられても、他は神社のお守りと同じでゴミ箱にポイ捨てしにくい。それは日本人がモノにストーリーを感じる国民性だから」と指摘する。では、不要になったハンコを断捨離するにはどうすればいいのだろうか--。
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■100円ショップで買った三文判は捨てられるが……

河野太郎行政改革担当大臣が「脱ハンコ」を打ち出した。大臣は、行政手続きで求められる押印の99%が廃止できる見込みと発言。業界団体や印章の一大産地である山梨県などは反発を見せているが、ハンコレスの流れには抗えそうにもない。

では、あなたは不要になったハンコはゴミ箱にポイ、と簡単に捨てられるだろうか。

ハンコは神社のお守りのように、心理的に断捨離しにくいアイテムだ。本稿では、デジタル化などが原因で不要となったモノの処分についての論を展開していきたい。

私もサラリーマン時代には、わざわざ伝票に捺印するためだけに出勤することがしばしばあった。さまざまな行政書類や契約書類の記入などで相手先に伺う際、うっかりハンコを忘れて100円ショップや文具店で求めたこともあった。昭和生まれの人ならば、実印のほか、認印に使われる三文判がいくつか、さらに本好きならば蔵書印など、探せばハンコがゴロゴロと出てくるのではないか。

しかし、ハンコは断捨離しづらいアイテムだ。100円ショップで買った三文判はともかく、長年使い続けたハンコをゴミ箱にポイと捨てることに罪悪感を抱く人は多いはず。特に故人が使っていたハンコは「形見」の要素も含まれ、捨てるには躊躇を伴う。

■日本には不要なハンコを供養する文化・風習が各地に

その実、日本人は古くから、こうした「捨てられないモノ」や「時代の変化に伴って使われなくなったモノ」を、うまく処理する文化を持ってきた。

それが「供養」である。実は使われなくなったハンコを供養する文化、風習が各地にあるのだ。

例えば世界遺産の京都・下鴨神社では毎年9月最終日曜日に古いハンコを集めて祈願、供養する「印章祈願祭」が実施される。施主は公益社団法人全日本印章業協会だ。

撮影=鵜飼秀徳
下鴨神社では印章祈願祭が行われている - 撮影=鵜飼秀徳

下鴨神社の境内には、古くから印璽社(いんじしゃ)と印納社(いんのうのやしろ)というハンコを祀る末社がある。印璽社は「契約の神様」としても崇められ、「大切な契約の時、物事を成功裏に結び付けたい時などに参拝される方が後を絶たない」(下鴨神社公式HPより)という。一方で、印納社は持ち寄られた古いハンコを奉納する社である。

もし、家庭の中で不要になったハンコがあれば、祈願祭の当日に下鴨神社に持参するか、全日本印章業協会加盟のハンコ店に「祈願祭で供養をお願いしたい」と言えば、毎年秋、下鴨神社の印章祈願祭で神職が祈願してくれるのである。

ハンコの供養や祈祷は、他にも東京・上野の下谷神社や横浜市西区の東福寺、静岡県の静岡浅間神社など全国各地の寺社で実施している。ちなみに東福寺には関東大震災で犠牲になったハンコ業者の追悼碑がある。

■ハンコのルーツは宗教との関係が深い

しかし、なぜハンコは無碍(むげ)に捨てられないのだろう。ハンコに霊的な力が秘められているからか? 確かに、ハンコのルーツをたどれば宗教とも関係が深い。

そもそも、仏教教典の印刷自体がハンコのようなものである。ハンコの語源は「版行(版をつくって印刷すること)」だ。経文を板に鏡写しに彫って、紙に転写する。実は世界最古の印刷物は、称徳天皇によって奈良時代に手掛けられた「百万塔陀羅尼教」である。

7世紀以降は紀州・熊野三山をはじめ、東大寺、高野山などで牛王宝印(ごおうほういん)と呼ばれる厄除けの護符が発行された。熊野の牛王宝印のデザインは、「八十八のカラス」がデザインされたもので中央に朱印(ハンコ)が押されている。台所に祀れば火災避けになり、病気の場合は近くに祀れば平癒につながるという万能のお守りとして今でも、多くの参拝客が買い求める。

諸説あるが、この牛王宝印は現在につながる御朱印の起源ともいわれている。御朱印は三宝印(仏・法・僧)などの印(ハンコ)が中央に押され、中央に本尊の分身が墨書されたもの。御朱印集めは、四国お遍路の整備などの影響によって、江戸時代に普及した。御朱印は、駅などに置かれているスタンプラリーのルーツでもある。

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■ハンコとともにポイ捨てしにくい名刺

以上のように「ハンコは宗教に起源をもつものだから処分しにくい」といえば、決してそうではあるまい。別の理由がありそうだ。

実はハンコと似たようなアイテムにも、類似の供養祭があり、併せて論じるとわかりやすい。例えば「名刺」である。

名刺はビジネスパーソンにとっては必携のアイテムである。相手と「交換」が生じるため、どんどん蓄積される。名刺は連絡先など相手の情報が詰まっているので、バッサリと捨ててしまうと必要な時に困ってしまう。

しかし、近年はクラウド上で管理する名刺アプリが普及しつつある。紙の名刺をひとたびデータ化すれば、元の名刺は不要になる。

合理的に考えれば、デジタル化によって手元に残った名刺は紙くず同然。がしかし、名刺もハンコと同様に、なかなか廃棄処分に踏み切れないアイテムだ。いや、捨てられないどころか、折り曲げたり、汚したりすることも憚られる不思議な存在が名刺である。

■愛着のあるモノを清算したい時、寺社の儀式が機能する

クラウド名刺管理サービスを提供するSansan(本社:東京都渋谷区)は、2017年に20〜50代の会社員、自営業者、公務員ら297人を対象に「名刺と処分に関するインターネット調査」を実施している。回答では、平均1383枚の名刺を所有しているものの、全体の92%が名刺を捨てられないとしている。名刺を捨てられない理由として、「今後の活用のため」が40%、「相手に失礼だから」が38%と拮抗(きっこう)している。

そこでSansanでは、名刺を手放すきっかけを与えようと、2015年から東京・お茶の水にある神田明神(正式名・神田神社)で「名刺納め祭」を実施している。私も2018年に参加した。

撮影=鵜飼秀徳
神田明神で実施されたSansanの名刺納め祭 - 撮影=鵜飼秀徳

神殿にて名刺の奉納と祈祷が行われ、神職によって祝詞が奏上。Sansanの社員や参加者らは恭しく耳を傾け、不要になった名刺と玉串を奉納する。そうしてようやくスッキリとした心持ちで不要な名刺を破棄できるのだ。

こうした不思議な日本人の供養心は、いったいどこから、生じるのか。私は「人間と対象物」との間に意識的な関係性(ストーリー性)が生じるとき、供養の対象になっていくと考えている。

「愛着」という言葉にも置き換えられるかもしれない。逆に、「意識的な関係性」が生まれないような、「大量消費物」に愛着を見いだすことは難しい。成人式の時に親からつくってもらった実印は捨てられないが、100円ショップで買った三文判は躊躇なく捨てられる。大きな商談が成立した相手の名刺はずっと残しておきたいが、顔も思い出せない挨拶に訪れただけの営業マンの名刺はシュレッダーにかけられる――などの例であろう。

そのモノにストーリーが込められているかどうか。愛着のあるモノを清算したいと考えた時、寺社の儀式が機能する。日本人は断捨離の中に、宗教的機能をうまく取り込んできた。

生物だけではなく万物の死を悼み、弔っていく行為は、豊かな想像力がなしうること。モノに思いを馳せることの大切さ。それがいまの閉塞社会に求められているようにも思う。モノ供養の美風が現代社会に広く吹き渡れば、より優しい社会になっていくことだろう。

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『仏教抹殺』(文春新書)など多数。近著に『ビジネスに活かす教養としての仏教』(PHP研究所)。佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事。
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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)