家督が継げなきゃ自力で家を興す!関ヶ原で活躍した信長の甥・織田長孝の武勇伝【下】

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前回のあらすじ

織田信長(おだ のぶなが)の甥っ子である織田河内守源二郎長孝(かわちのかみ げんじろう ながたか)は、父・織田源五郎長益(げんごろう ながます。有楽斎)と共に関ヶ原合戦(慶長五1600年)に東軍として参加。

死闘の末に西軍の猛将・戸田武蔵守半右衛門重政(とだ むさしのかみ はんゑもん しげまさ)を討ち取り、更なる武功を求めて敗走する西軍を追撃するのでした……。

初陣で二将を討ち取ったが……涙する諸将と、打ち砕かれた村正の槍

源二郎は敗走する西軍へ更に追い討ちをかけ、西軍の総大将・石田治部少輔三成(いしだ じぶのしょうゆう みつなり)が落ち延びた後も抗戦する半右衛門の嫡男・戸田内記重典(ないき しげのり)も討ち取り、二つ目の首級を上げます。

「敵将・戸田内記、織田河内守が討ち取ったりっ!」

これで二つ目。死闘の末、戸田内記の首級も上げた源二郎主従(イメージ)。

初陣で二将を討ち取る大手柄に、父もさぞやお喜び下さろう……凱旋後、意気揚々と首実検に臨んだ源二郎でしたが、半右衛門の首級を前に、多くの東軍武将たちが涙を流していました。

それもその筈……この半右衛門、西軍は元より東軍の諸将と交友が深く、父や(家来が首級を奪おうとして、源二郎の家来と相討ちとなった)津田信成とも仲が良かったそうで、広く声望を得ていたことが判ります。

(何じゃ、これでは討ち取った儂が悪者みたいではないか……とは言え、討つも討たるも戦さの習いなれば、もはや詮方なき事じゃ……)

さて、気を取り直して首実検は執り行われ、「半右衛門を討ち取った槍が見てみたい」という家康の所望によって源二郎の槍が披露されます。

「ほぅ……これはなかなかの業物じゃ……」

薄く残った血糊に鈍る穂先の光にうっとりしてしまったのか、槍を捧げ持っていた近習が手を滑らせてしまいました。

「ァ痛っ!」

槍の刃が家康の指を傷つけ、僅かな血を吸って地面に転がると、家康は逆上して問い質します。

穂先の放つ妖光に、何か嫌な予感がした家康(イメージ)。

「この槍は尋常ならざるもの……さては村正(むらまさ)ではなかろうな!」

質された父は「は。いかにも村正にございますれば」と答えると、源二郎ともども退出を命じられました。

(いやはや、勘気を召されたか……しかし、当方に落ち度なき事なれば、致し方あるまい)

そんな二人の元へ、近習の一人がやって来て「徳川家に代々仇をなす妖刀村正の因縁」について説明されます。

※詳しくはコチラ

天下人・家康も恐れをなした!?妖刀「村正」と徳川家にまつわる因縁とは

「左様であったか……なれば今後(処世)の障りとなろうゆえ、斯様の槍は打ち砕くべし!」

かくして源二郎と共に修羅場を潜り抜けた村正の名槍は、無残にも屑鉄とされてしまったのでした。

エピローグ

そんなアクシデントはあったものの、武功は武功。いくら仲良しであっても敵は敵、その仲良しを討った者であっても味方は味方……と、私情を超えて評価できるのが、家康のいいところ。

源二郎は関ヶ原の武功によって所領を大きく加増され、一万石どりの大名(美濃野村藩初代藩主)に出世。完全に父からの独立を果たしたのでした。

しかし、半右衛門との死闘で傷でも負ってしまっていたのか、関ヶ原の合戦から6年後の慶長十一1606年7月5日に亡くなってしまいました。享年は26〜34歳(※天正元1573〜同九1581年生まれと仮定)と推測されます。

秀忠と家光。徳川三代に仕えた野村藩(イメージ)。

野村藩は長男の織田孫一郎長則(まごいちろう ながのり)が継承、徳川秀忠(ひでただ。江戸幕府第2代将軍)や徳川家光(いえみつ。第3代将軍)に仕えますが、子供がいないまま寛永八1631年7月4日に亡くなったため、無嗣改易(※)となってしまいました。

(※)むしかいえき。江戸時代、徳川幕府は後継ぎのいない藩は領地を没収。死ぬ直前に養子をとることも認めていませんでした。

しかし、次男・織田織部長政(おだ おりべ ながまさ)は加賀藩に仕官し、末子の長家(ながいえ)も加賀藩士・村井長次(むらい ながつぐ)の養子となってそれぞれ活躍します。

信長以降、歴史の表舞台からフェイドアウトしていくイメージの強い織田家ですが、源二郎をはじめ多くの織田たちがその後も活躍し、興味深いエピソードを残しているので、興味を持って調べてみると面白いですよ。

【完】

※参考文献:
桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年1月
戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年12月
家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』新人物往来社、1987年11月