01年に加入した浦和では5シーズンに渡ってプレー。驚異的なペースでネットを揺らし続けた。(C)SOCCER DIGEST

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 あらゆる意味で、破天荒な男だ。

 爆発的なスピードと野生動物のような身のこなしでマーカーを置き去りにし、右足から強烈なシュートを叩き込んだ。DFとの駆け引きが巧みで、勝負強さも抜群。対戦相手にしてみれば、エメルソンは危険極まりないストライカーだった。

 その一方で、無用なラフプレーや審判への抗議でカードをもらい、重要な試合を累積警告でしばしば欠場。練習をすっぽかしたり、大幅に遅刻をしたりするのは日常茶飯事で、ブラジルへ帰国するといつ戻ってくるかわからない問題児だった。

 リオ郊外の極貧家庭の出身。家には「床」がなく、土が剥き出しで、トイレすらなかった。

 絶対的な貧困から抜け出す唯一の手段として、プロ選手を目指す。しかし、栄養不足で身体の発育が遅く、体力もない。少年時代は、全く目立たなかった。

 将来を案じた母親が、彼が17歳のときに2歳9か月も若い出生証明書を偽造する。それを持って名門サンパウロFCのU−15のテストを受け、合格した。

 同じチームにMFカカ(後にACミラン、レアル・マドリー、ブラジル代表などで活躍)がいたが、クラブ関係者は「将来性はカカより上」と激賞した。
 
 1998年、17歳(実年齢は20歳)でトップチームに昇格し、翌年のブラジルリーグで8試合に出場して2得点。しかし、クラブは彼の年齢詐称に気付く。ブラジル・サッカー連盟からの処罰を危惧し、1999年末にコンサドーレ札幌(当時J2)へ期限付き移籍させた。公称18歳だったが、実際は21歳だった。

 名門サンパウロFCで将来を嘱望された実力は、J2では別格だった。34試合に出場して31得点をあげて得点王。2001年、川崎フロンターレ(当時J2)へ完全移籍し、18試合で19得点。しかし、問題行動の多さに川崎が音を上げ、この年8月に浦和レッズへ移った。

 2003年、ナビスコカップで8得点を奪って浦和に史上初のタイトルをもたらし、Jリーグで18得点を記録して年間MVP。2004年もJリーグで26試合に出場して27ゴールを挙げて得点王に輝く。しかし2005年7月、好条件を提示されてアル・サッド(カタール)へ去った。

 日本では、J2で52試合に出場して50得点、J1で100試合に出場して71得点という驚異的な数字を残した。
 
 2006年、少年時代の身分証明書偽造が発覚してブラジル連邦警察に逮捕され、罰金と社会福祉活動を科せられた。

 その後、レンヌ(フランス)などを経て、2009年、フラメンゴへ移籍し、ブラジル・リーグで優勝。アル・アイン(UAE)、フルミネンセを経て2011年にコリンチャンスへ移り、2012年のコパ・リベルタドーレス優勝に大きく貢献。クラブ・ワールドカップでも、決勝でチェルシーを倒して世界王者となった。

 その後、ボタフォゴなどを経て2018年、コリンチャンスへ復帰したが、年末に40歳で引退。クラブの功労者としてテクニカル・コーディネーターに任命されたが、昨年末に辞任した。

 以後は、「かつての自分のような貧しい家庭の子供たちを助けたい」(本人)と、生まれ故郷のリオ郊外に貧しい青少年を援助するNGO「エメルソン・シェイキ基金」を設立。貧困家庭に食料を配給したり、子供たちに教育の機会を与える活動を行なっている。
 
「ブラジルでは新型コロナウイルスの感染が爆発的に拡大しているけれど、特に貧困層に犠牲者が多いんだ。彼らはたいてい狭い家に大人数で住んでいて、外へ出て働かなければ食べていけない。“ステイ・ホーム”なんて優雅なことを言ってられるのは、中流以上の話。庶民は、失業したり収入が激減したりして四苦八苦している。僕は、そんな社会の底辺で喘ぐ人たちにできる限りの支援をしてあげたい」

 札付きの悪童から、“貧民街の天使”へ⁉ 現役時代のプレー同様、エメルソンがやることは想定外だ。 
 
文●沢田啓明