ワールドカップのアジア1次予選でも活躍した福田が、アウェーのUAE戦では……。写真:サッカーダイジェスト

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 まだ日本がワールドカップ本大会に出られなかった時代、どこか人間臭く、個性的で情熱的な代表チームが存在していたことを是非、知っていただきたい。「オフトジャパンの真実」としてお届けするのは、その代表チームの中心選手だった福田正博の体験談を基に、「ワールドカップに絶対出る」という使命感を背負って過酷な戦いに挑んだ日本代表の物語であると同時に、福田自身の激闘記でもある。今回は<エピソード3>だ。

【前回までのあらすじ】
 オフトジャパンで最初は反発しながらもハンス・オフト監督との信頼関係を築いた福田は、代表チームでトップ下に定着。ダイナスティカップに続き、アジアカップでも優勝に貢献し、ここまでは良い流れで来ていた。しかし──。

<エピソード3>
 1992年11月のアジアカップ制覇で、オフトジャパンへの注目度は高まった。翌年にJリーグの開幕が控えていることもあり、日本で空前のサッカーブームが起ころうとしていた。それを肌で感じていた福田の内面にもある変化があった。

「アジアカップの優勝で、自分に期待する部分が出てきたよね。『やらなきゃいけない』って」

 世の中的に「ワールドカップに出られるんじゃないか」という機運が高まっていたからでもあるだろう。この頃になると、福田は自分に大きな期待をするようになった。ダイナスティカップに続き、アジアカップでも貴重なゴールを挙げるなどして優勝に貢献したのだから、決して驕りではない。むしろ、当然の心の変化である。

 ただ、その期待が力みを生むきっかけにもなったと言えるだろう。実際、93年4月から始まるアメリカ・ワールドカップ・アジア1次予選に向け、「平常心を保てなかった」と福田は証言している。

「それまでほとんど来なかったメディアが(93年2月の)イタリア遠征にどっと押し寄せ、神戸や沖縄のキャンプにも凄い人数が来る。Jリーグの開幕も迫っていて『ワーッ!!』となっていたから、もの凄いプレッシャーを受けていた。平常心なんか保てないよ」
 
 迎えたアジア1次予選、ホームで迎えた初戦の相手はタイだった。グループFに組み込まれた日本は、タイの他にUAE、バングラデシュ、スリランカと同居。ここから最終予選に進めるのは1か国という条件を考えれば、このタイ戦(4月8日)での勝利は必須だった。

「みんなガチガチで、かたい試合になったよ。タイが上手いというのもあって、最初はなかなかペースを握れなかった」

 それでも、0−0で迎えた29分、福田が決定機を演出する。森保からボールを受けると、ルックアップしないまま前線の三浦知良(以下カズ)へ絶妙なパスを送ったのだ。これをカズが左足のハーフボレーで蹴り込み、日本は待望の先制点を奪う。福田曰くこのアシストが「タイ戦でやった唯一の仕事」だった。
 
 当時の1次予選はホーム&アウェー方式ではなく、ダブルセントラル方式(第1ラウンドを東京、第2ラウンドをUAEのドバイで開催)。最初の4試合を東京、残り4試合をドバイで戦う日本が1次予選を突破するにはホームで全勝できるかが大きなポイントで、その意味でタイ戦の勝利(1−0)の価値は計り知れないものがあった。

 実際、4月11日に行なわれた2戦目でバングラデシュを8−0と一蹴すると、続くスリランカ戦(4月15日)も5−0と大勝。そして“大一番”と目されたUAE戦(4月18日)を柱谷哲二と高木琢也のゴールで制した日本は、ドバイ・ラウンドでもタイに1−0、バングラデシュに4−1、スリランカには6−0と順調に白星を積み重ねていった。

 残り1試合で、首位の日本は2位のUAEに勝点で「2」、得失点で「11」の差をつけていた。UAEとの直接対決を前に大きなアドバンテージを得ていた日本は、この1次予選の最終戦(5月7日)を1−1で乗り切り、93年10月にスタートする最終予選へと駒を進めた。