オフトジャパンの航海は順調のように見えた。ただ、この時すでに福田は大きなアクシデントに襲われていた。

「俺自身にとって、中東遠征は初めての経験だった。実は、UAE戦の前に体調を崩した。何に当たったのか、原因に心当たりがないんだけど、とんでもないコンディションになった。酷い下痢と吐き気に襲われて、とても試合ができる状態ではなかった。チームに帯同していたドクターに『絶対に先発で使うから努力してくれ』みたいなことを言われたけど、試合の前々日からほとんど動けなくて、練習もしないままバスで試合会場に行った。しかも、結構遠かったんだよ、そのスタジアムが。どうにかコンディションを整えようとみんなより早くウォーミングアップした。でも、暑いし、なんだかふわふわしているし、まるで自分の身体じゃないような感覚に襲われていた。UAE戦は結局、後半の途中に代わった。オフトはよく使ったよね、この時の俺を」

 謎の吐き気、下痢……、原因が分からない。一種の混乱によって、福田は中東に対してコンプレックスみたいなものを抱くようになる。

「食べ物はもちろん、歯磨きにもナーバスになって。それが自分の中で大きな問題になっていた。中東に対してコンプレックスというか、過敏になっていて、今でも行きたくないと思うぐらい。最終予選に向けて、それがトラウマになったのは事実だね」
 
 ドバイから帰国した福田を待っていたのは、“過酷な日々”だった。1次予選後に開幕したJリーグによって空前のサッカーブームが到来。これを一過性のものにしてはいけないという使命感もあった福田は、コンディションが悪くても試合に出続けた。在籍クラブの浦和ではチームに不可欠な存在で、点滴を打って臨むゲームも結構あった。

 当時、日本代表でも主力を張っていた福田はJリーグ屈指のスター選手。ファン・サポーターからはもちろん、メディアの人間からも相当期待されていたが、それがかえってプレッシャーになった。しかも、当時のJリーグは週2試合のペースで、延長Vゴール方式(延長に入ったら先にゴールを奪ったほうが勝ち)、それで決着がつかなければPK戦と超ハード。心身ともに万全からは程遠いコンディションにあった。
 
 当時の代表メンバーで苦しんだのはなにも福田だけではない。オフトジャパン不動の左サイドバックだった都並敏史が5月22日の広島戦で左足首を負傷して以降も強行出場した結果、7月18日に亀裂骨折が判明。また、魂のキャプテン・柱谷もウイルス性の風邪をこじらせて8月から1か月ほど入院生活を余儀なくされたのだった。ワールドカップ・アジア最終予選を前に、チームは危機的な状況に直面していた。

 のちに福田はオフトからこう言われている。

「『最終予選の前にスペインに行っただろ。なんのために行ったか分かるか? 選手たちを休ませるために行ったんだぞ』と教えてもらった。オフトはあの時期どうしてもチームをメディアから遠ざけたかったんだ」

 しかし、当時の福田はそんなことを知る由もない。9月のスペイン遠征(相手はベティス、カディス、ヘレス)は3戦全敗。福田の言葉が当時のチームの苦境を物語っていた。「自分たちにはリラックスできる余裕もなかった」。
 
 柱谷が戦列に復帰したアジア・アフリカ選手権のコートジボワール戦(10月4日)こそカズのゴールで1−0と勝利したものの、都並に復帰の目途が立っていなかった。代役として左サイドバックに抜擢された三浦泰年がこの試合で及第点の働きはしたが、どこかチームとして機能不全な部分もあった。そんな状況下で、福田はコンディション調整に相変わらず苦しんでいた。在籍先の浦和がJリーグで結果を残せないことも重なり、ナーバスな状態になっていた。

「良い状態ではなかったね。思うようにいかないから、余計にいろんなことが気になってしまって。元々神経質なのが、より過敏になってしまった。実は当時、坐骨神経痛の問題もあって……。心身ともに万全ではないというか、繊細さが悪いほうに出たかな」

 そうしたナーバスな状態で、福田は“最終決戦の地”ドーハへと旅立っていった。<エピソード4に続く。文中敬称略>

取材・文●白鳥和洋(サッカーダイジェスト編集部)

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