清水は2015年、セカンドステージ14節の仙台戦で敗れ、その後の他会場の結果により初のJ2降格が決まった。写真:田中研治

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 1993年のJリーグ初年度から加盟しているクラブはオリジナル10と呼ばれ、清水エスパルスはその中で唯一、母体が実業団ではない。いわゆる市民クラブだ。そんな清水のJ参戦28年という長い歴史の中で、ふたつの大きな事件があった。

 ひとつは97年末に20億円を超える負債が表面化した経営危機だ。ただ、地元住民、ファン、サポーターなどの署名や地元企業の支援でなんとか乗り切り、経営体制も一新。その後、96年から指揮を執っていたオズワルド・アルディレス監督や98年12月に就任したスティーブ・ペリマン監督の下で堅実なチーム作りを行ない、2001年の天皇杯優勝など、黄金期につなげた。

 ふたつ目はクラブ初のJ2降格。今回はこの出来事を軸にクラブの変化を振り返ってみたい。
 
 年間順位17位で15年にJ2降格が決まった清水だが、原因となった病巣はかなり前からあった。

 90年代後半から2000年代初頭にかけての黄金期が過ぎ、その後、低迷期を挟む。ただ、05年にクラブのレジェンドである長谷川健太氏を監督に招聘してからは短期間で復活し、J1で常に上位に立った。

 しかし10年シーズン限りで、長谷川監督が退任すると、功労者の伊東輝悦、市川大祐、西部洋平らが退団。岡崎慎司、藤本淳吾、本田拓也といった日本代表クラスやキャプテンの兵働昭弘も後に続き、主力の半数以上がチームを去った。
 
 ショートカウンターを志向していた長谷川監督の後任は、ポゼッションを標榜するアフシン・ゴトビ監督。メンバーも戦術も大幅に変わり、6年間で築き上げた長谷川監督の財産はほとんど継承されず。ある強化関係者は「それまで時間をかけて培ってきたものを、後輩たちに伝える選手がいなくなったのが痛かった」と当時を振り返った。

 小野伸二や高原直泰といったカリスマの存在や、大前元紀、河井陽介の台頭もあって、11年は10位、12年と13年はともに9位という順位を保ち、12年にはナビスコカップで準優勝を果たした。だが、ゴトビ監督は個々を成長させるという面では期待通りの成果を挙げられず。指揮官への求心力も弱まり、チーム力は徐々に低下していった。

 にもかかわらず契約が延長され、14年のゴトビ体制4年目は序盤から低迷。17節終了時点でゴトビ監督を更迭し、後任にユースの監督を務めていた大榎克己氏を据えた。しかし、長谷川監督とともに「清水東三羽ガラス」と評され、クラブのレジェンドだった大榎監督でさえ、カンフル剤にはなれず。最終節になんとか残留を手繰り寄せるのが精一杯だった。
 
 そして大榎監督が続投した15年も明確な「清水らしい」サッカーを形にできず、ファーストステージは最下位。セカンドステージの6節から田坂和昭ヘッドコーチを監督へ据えたが、3節を残して初のJ2降格が決まった。

 J2降格に到るまでにふたつの失策があったと考えている。ひとつは10年末の大幅な戦力喪失。もうひとつはゴトビ政権を3年半も引っ張ったことだ。背景にあったのは、サッカー王国の「油断」――静岡・清水のチームがJ2に落ちるはずがないという緩みではないか。

 その真偽は別として、初のJ2降格で「サッカー王国・静岡」のプライドがかなり失われたことは間違いない。長谷川監督が一時代を築いたように「清水愛が強いレジェンド(大榎監督)に監督を託せば、なんとかしてくれる」という期待も打ち砕かれた。
 
 当然、精神的なショックは大きかったが、足もとを見つめ直して再出発を図るという意味では良い契機になった。

 実際、J2降格以降は現実路線を走ってきた。16年は“昇格請負人”の異名を持つ小林伸二監督を招聘して堅実に戦い、1年でのJ1復帰を達成。17年こそ苦戦したが、18年はヤン・ヨンソン監督の下、守備に重きを置いて5年ぶりにJ1の一桁順位(8位)を手にした。ただ、上り調子になった18年の夏以降はドウグラスが絶対的な存在感を発揮したこともあり、「戦術=ドウグラス」と揶揄される声もあった。