1985(昭和60)年に初飛行したSTOL実験機「飛鳥」は、わずか3年半で飛行を終えました。しかし「飛鳥」はSTOL技術だけでなく、そのほかの様々な航空技術の実験も担っており、それらは後の新型国産機で開花しました。

国産ジェット輸送機C-1をベースに誕生

 飛行機は、より速く、より大量に、より長い航続距離を求めて進化を続けてきました。しかし、機体が大きくなればそれだけ離着陸に必要な滑走距離も長くなるというジレンマがあります。

 しかし、飛行機がヘリコプターのように垂直離着陸(VTOL)できれば滑走路は不要です。また滑走路が必要だったとしても、短距離で離着陸(STOL)できれば大きなメリットがあります。このような考えから日本国内の航空機メーカーが結集して製作したのがSTOL実験機「飛鳥」でした。


岐阜かかみがはら航空宇宙博物館で展示される「飛鳥」(2009年3月、柘植優介撮影)。

 日本では、1950年代後半からSTOLおよびVTOL機の研究が始まり、防衛庁技術研究本部(現在の防衛装備庁)や国立航空宇宙技術研究所(現在の独立行政法人宇宙航空研究開発機構、JAXA)などで各種実験機の製作や試験が行われました。

 それらのテスト結果を踏まえて、川崎重工を中心として、三菱重工、富士重工(現在のSUBARU)、新明和工業、日本飛行機などが協力し、1980年代前半に「飛鳥」は作られました。

 ベース機には、航空自衛隊向けに川崎重工が開発したC-1ジェット輸送機が用いられ、国産のジェット(ターボファン)エンジンを4発搭載していました。STOL効果を高めるため、エンジンの取り付け位置は主翼の前縁上部と、ほかではちょっと見ない姿です。

 1985(昭和60)年10月28日に初飛行した「飛鳥」は、そのあと1989(平成元)年3月までの3年半にわたってさまざまな飛行実験が行われ、STOL機としての貴重なデータをもたらしました。

計画時から状況一変、必要性に疑問符

 飛行試験中は未来の航空機として、メディアなどで盛んに取り上げられた「飛鳥」でしたが、開発がスタートした1970年代とは、日本国内の状況が様変わりしていました。

 同じく1970年代から始まった「空港整備特別会計」によって、国主導で各地に空港が新設され、既存の空港は整備充実が図られていきました。さらに1980年代後半になると、いわゆるバブル景気による日本経済の好調を後ろ盾として、リゾート需要を見越した地方空港の拡充が進んだ結果、軒並み各地の空港において既存のジェット旅客機の運航が可能となり、STOLジェット機の必要性が薄らいでいきました。


「飛鳥」のベース機となった航空自衛隊のC-1輸送機。エンジンはアメリカ製のターボファンエンジン双発である(2009年3月、柘植優介撮影)。

 またSTOL旅客機を改めて開発量産しようとすると、多額のコストがかかるほか、従来機とは違う飛行特性のため、操縦士をはじめ運航要員に専門訓練が必要になるなど、デメリットも多々ありました。その結果、日本でSTOL機を実用化することは断念されました。

 その後、バブル経済は弾けましたが、地方空港の整備は進みました。また航空機自体の性能も上がり、静粛性も向上しています。しかも、いまや格安航空会社(LCC)をはじめとして、航空業界全体がコスト削減にシビアになっています。そうしたなかで、飛行特性が異なり、機体構造も特殊なSTOL機は、航空会社にとっても取得しにくいでしょう。

 こうしたことからも今後、新規でSTOL機が開発量産される可能性は限りなく低いと見られます。しかし、「飛鳥」が残した実験データは、その後の国産機を開発するにあたり大いに活用されたそうです。

新型機へ繋がる「飛鳥」の技術

「飛鳥」でテストされたおもな技術には、純国産ジェット(ターボファン)エンジン「FJR710/600S」やSTOL技術以外にも、コクピットへのヘッドアップディスプレイ(HUD)の導入や、我が国初のデジタルコンピュータによる飛行制御装置、フライバイワイヤ(FBW)、複合材の導入、低騒音化などいろいろありました。

 これらは、その後開発されたF-2戦闘機やC-2輸送機、P-1哨戒機で花開いたほか、国内メーカーが開発に参画したボーイングやエアバスの旅客機にも用いられています。


飛鳥の操縦席。フライバイワイヤが使われているとはいえ、計器盤やスロットルレバーなどはC-1と同様で古めかしい(2009年3月、柘植優介撮影)。

 このように、「飛鳥」自体は実験機で終わったものの、そこで培われた航空機技術は2019年現在に継承されているといえるでしょう。

 なお実機は、岐阜県各務原市にある「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」で保存展示されており、「飛鳥」が搭載したFJR710/600Sエンジンの試作品は2007(平成19)年、「機械遺産」に認定されています。