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ポンティアック・ファイアーバード(1967年)

GMはシボレー・コルベットと直接競合することを恐れ、ポンティアックに2シータースポーツカーの生産を認めなかった。その代わり、シボレー・カマロとプラットフォームを共有するスポーツカーの製造は認可された。

「スクリーミング・チキン」と呼ばれたこのクルマはカマロと4世代をともにしたが、2002年に不死鳥伝説は終焉を告げた。

その後、2008年ごろの世界的不景気の影響を受け、GMは2010年にポンティアックブランドを丸ごと廃止した。

プリマス・ロードランナー(1968年)

マッスルカーはさらにパワフルになると同時に、値段もかなり高くなっていき、手が出しにくい存在となっていた。

そんな中、ロードランナーは原点に立ち返り、普遍的なボディにパワフルなエンジンを積むという保守的かつ確実な手法をとった。

たちまちうわさは広がり、プリマスの予想を超える人気を得ることとなった。時代は手の届きやすいマッスルカーを求めていたのだ。

プリマスがその後どうなったかというと、2011年にはブランドが消滅してしまった。プリマスの下で販売されていた車種は生産終了か、クライスラーブランドでの販売が継続された。

プリマス・プラウラー(1997年)

ミニカーのホットウィールを実物スケールにしたのがプラウラーだ。プリマス起死回生の策として投入されたこのクルマは、1950年代のクラシックホットロッドから発想を得ている。

その当時市場には似たクルマがなく、プラウラーは唯一無二の存在を確立した。大ヒットやベストセラー車種とはならなかったが、その後続く2000年代初頭に続々と投入されたレトロスタイルを重視したモデルのパイオニアとなった。

ローバーSD1(1976年)

ローバーはまだ完全に死んでいないという意見をたくさん聞く。事実、ローバーは中国にてロエウェ(荣威)という名前のブランドに転生した。SD1はローバーが最後の力を振り絞って、完全自社設計でフラッグシップを作ろうとした結果だ。

アヴァンギャルドなデザインにオプションとして選択可能だったV8エンジンはローバーのラインナップの頂点に立ち、BMWやメルセデス・ベンツなどの高級セダンとも肩を並べた。

ローバーはどうして消えたのか?ローバーはのちにオースチン・ローバー・グループの一員となり、ホンダとも共同開発を行なった。1986年にはSD1の後継モデルとして、ホンダ・アコードベースのローバー800シリーズをリリースした。

その後、ブランドは1994年にBMWに売却された。2000年にはランドローバーブランドをフォードへ売却し、MGローバーも10ポンドの価格で売却されたが、2005年に消滅した。

「ローバー」の名は2006年にBMWがフォードに対し1000万ポンド(14億円)で売却し、ランドローバーとジャガーは2008年にタタ・モータースへと売却された。

サーブ99(1968年)

99はサーブの歴史の新たなチャプターを作り上げた。サーブは今までの92の流れを汲むデザインを終わらせ、カーブ状のフロントガラスなどのより現代的なデザインを採用。

96から続けていたDKW製2ストロークエンジンの採用も、トライアンフ製4気筒エンジンに置き換わった。1978年にリリースされたターボモデルは99の中でも傑作と謳われる。そこからサーブのハイパフォーマンスモデルの道が開かれたのだ。

サーブは2000年にGM傘下となった。2010年にはオランダのスパイカーへ売却されたが、翌年に自動車の生産を停止した。サーブの施設や設備などはNEVS(ナショナル・エレクトリック・ビークル・スウェーデン)が買い取ったが、残念ながらNEVSが生産するモデルにサーブの名前は使われない。

それもそのはず、サーブの名称及びロゴは現在も航空機や軍用機を生産する「元」親会社のSAAB ABが保有しているためだ。

サーブ900エアロ/SPG(1984年)

サーブ900エアロ(北米市場ではサーブ900 SPG)をもって、サーブはドイツの競合車種とも十分に張り合えるということを証明したかった。初期のプロトタイプは900ターボの車体に160psを出力する4気筒ターボエンジンを載せて作られた。

他の900と差別化するために、ユニークな3スポークのホイールや、腹下が黒樹脂になっているのが900エアロの特徴だ。リアフェンダーに装着されているインテークはメルセデス・ベンツのW201に同じものがあるのを連想させるデザインとなっている。

シムカ1000ラリー(1970年)

シムカ1000もアバルトが手がけた作品のひとつだ。アバルトは3つのラリーモデルをラインナップに用意し、その走りに多くの愛好家が酔いしれた。空気力学的に必ずしも最適な車体とは言えないが、シムカ1000は手が出しやすいハイパフォーマンスセダンとして最適の選択だった。

最初の2モデルもなかなかにチューニングされたものだったが、最上級のラリー3は公道走行可能ながらも、限界突破を目指した立派なレースカーに仕上がっていた。全モデルとも今日もヒルクライムなどのイベントでよく目撃される。

シムカは1970年にクライスラー、1979年にPSAプジョー・シトロエンが買収し、その後ブランドは消滅した。

スチュードベーカー・アヴァンティ(1962年)

アヴァンティはスチュードベーカーが消滅する前の最後の賭けとして作られたクルマだ。スチュードベーカー・ラークのシャシーをベースにレイモンド・ローウィがデザインしたFRP製の車体が組み合わされたこのクルマは、シボレーがコルベットをリリースしたのを受けて開発された。

倒産するまでに約5800台のアヴァンティが生産されたが、実は2006年まで生産設備を受け継いだ5人の実業家が当時のパーツなども用いて倒産後も生産し続けていたのだ。

スチュードベーカーは1963年に主要のサウス・ベンド工場が閉鎖され、1966年まではカナダにある工場で生産が続けられた。スチュードベーカーの名は自動車用部品メーカーのフェデラル・モグールが今も保有している。

タトラ613(1974年)

ポルシェ911のように、タトラ613はリアエンジン方式を採用し続けた。前モデルの603と設計は共通しているが、スタイリングは完全新規となっている。

タトラは613のデザインをより新時代に合ったものを目指すため、イタリアのコーチビルダー、ヴィニャーレにデザインを依頼した。

ソビエト連邦崩壊以前の東欧諸国出身のクルマの中でもこの613の美しさは唯一無二の存在となっている。

欧州でプジョーに次いで2番目に古い歴史を持つタトラは1999年に乗用車の生産は終了したが、今現在も小型トラックや軍用トラックなどを生産している。

タルボ・サンバ・カブリオ(1982年)

このクルマの登場により、ゴルフ・カブリオレはまるでロールス・ロイスのような存在となってた。欧州で最も低価格なクルマのひとつをベースとしたサンバ・カブリオはその手頃な値段で若者を中心にオープンエアーの楽しさをもたらした。

タルボはサンバとプラットフォームを共有するプジョー104及びシトロエンLNAを切り離し、タルボ独自のブランドイメージの確立を試みた。

タルボが消滅してからはプジョー205CJがサンバ・カブリオの後継ポジションを担った。

タルボも数奇な運命を辿り、やがては最期を迎える。PSAプジョー・シトロエンは1979年にクライスラー・ヨーロッパを買収し、クライスラーやシムカの車種にはタルボのエンブレムがつけられて販売されていた。乗用車には1987年まで、バンには1994年まで使用されたのち、消滅した。

ベスパ400(1957年)

四輪自動車メーカーとしてのベスパは既にこの世にいない。世界的スクーターメーカーとして知られるベスパは、ドイツのゴッゴモビルや同郷のフィアット500への対抗馬としてベスパ400を欧州市場に投入した。393ccエンジンを搭載した400はフランスで製造されたが、これ以来ベスパが四輪車を作ることはなかった。

ベスパは今もスクーターを作り続けている。親会社のピアッジオはアプリリアやモトグッチなどの複数ブランドを通して、2016年は53万2000台の2輪車を販売した。