一見順調に見える日本経済。日銀の「異次元緩和」は極端な円高と株安を是正した。だが需要拡大には至らず、インフレ率2%という目標は達成できていない。東京五輪が終わった後、日本経済と私たちの生活はどうなるのか。2016年まで日銀の政策委員会で審議委員を務めた白井さゆりさんに聞いた--。

■「仕事はあります。ただし、選ばなければですが」

まずは雇用。人口減少に伴う労働人口の減少で人手不足だった労働市場はアベノミクスで加速した(図1・2)。

「五輪後も傾向は変わらないでしょう。仕事はあります(図3)。ただし、選ばなければですが」(白井さん、以下同)

日本の製造業の主力だった家電は今やかつてのような競争力はない。現在、海外と戦えるのは半導体製造装置など、資本財と呼ばれる付加価値の高い生産用機械だけだ。

「製造業はよりロボット化が進むので、雇用は非製造業と呼ばれるサービス産業が中心になります。情報通信、運送、医療・福祉といった業界のニーズはこれまで以上に増えるでしょう」

■違う業界で働くのは当たり前な世界がやってくる

一方で人手不足と騒がれながら、世間的に一流企業と呼ばれる銀行、百貨店、家電メーカーなどは大規模な人員削減を進めている。どんなに仕事に慣れ親しみ誇りを持っていたとしても、時代とともに衰退する産業、IT・ロボット化で雇用縮小する業界から人は離れ、職を求めて動かざるをえない。

「違う業界で働くのは抵抗があるでしょうが、それが当たり前な世界がやってきます。求められるのはプロフェッショナリズム、業界を問わずに活かせるスキルを身につけることです。ロイヤルティを大切に1つの企業や業界に長くいるのではなく、いろいろな業界を回ってスキルを磨く姿勢が必要です」

専門スキルというと資格が必要な技術職のようにも聞こえるが、そうではない。接客や営業、クレーム処理の担当、プロジェクトをまとめるリーダー……と業界を超えて活かせるスキルはたくさんある。雇用する側もむしろ異業種経験のある人に、業界の常識を打破する新しい風を求めている。

「日本は古い慣習で辞めた人を再雇用するのを嫌がる傾向がありますが、そんなことを続けていたら潰れます。チャレンジする人や企業・組織だけが生き残る。20年の五輪以降、その傾向ははっきり出てきます」

■非正社員の賃金は、上がるけれど……

人手不足になれば、労働者を確保するために企業は賃金を上げるというのが常識だったが、そうはなっていないのが現状だ。

「賃金体系は正社員と非正社員に分かれます。00年以降、企業は非正社員を増やして賃金を抑えてきましたが、人手不足で、もうそれはできない。非正規雇用は需給関係で成り立つ世界なので賃金は上がりやすく、時給だけ見れば、賃金はここ何年も2%を超えて上昇しています。差が小さくなれば、子育てや介護で離職しなくても、正社員になったり、非正社員になったりフレキシブルな対応ができます」(図4)

■内容量を減らす「実質値上げ」が増えている理由

働き方が選びやすくなるのはいいことだろう。しかし、賃金を上げたら販売価格も上げなければ企業収益はもたない。しかし、販売価格を上げるのは簡単ではないと白井さんは言う。

「社会保険料、ガソリン代、電気代、食料など身の回りのものの値段が上がっているから、みんな生活が楽じゃないと感じています。物価はそれほど上がっていないのに可処分所得が減っているから物価が高いと考えるわけです。賃金が上がればいいけれど、この先上がると思っている人はほとんどいません」

「加えて、すでに人口の約30%が65歳以上の年金受給世帯です。いつまで生きるかわからない。認知症になるかもしれない。将来の医療・介護にかかる支出を考えると不安でとても消費する気になれない。だからほとんどの人が物価上昇は好ましくないと思っています。そんななか販売価格を上げれば、シェアを失うことは間違いないので、企業は怖くて上げられない。堂々と上げられないから、内容量を減らすなどの実質値上げが増えているのです」

賃金を上げても販売価格が上げられないとなると、起きるのは熾烈な企業淘汰。生産性を高められる企業だけが生き残り、ほかは生き残れない。だから正社員の賃金は簡単には上がらない。

「14年からベアも一応プラスにはなっていますが、大企業でも1%以下。先行きが不安なのに固定給を上げるのには抵抗があるから、柔軟性のあるボーナスで調整しているのです」

■ほとんどの企業はこの先成長するとは思っていない

売上高が増えたわけでもないのに円安効果などで経常利益は増えたものの、設備投資に回すよりも内部留保が増大している(図5・6)。これも企業の不安と心配の表れだと白井さんは言う。

「ほとんどの企業はこの先成長するとは思っていません。考えているのは現状維持か、いかになだらかに縮小するか。成長が期待できないならたくさん設備投資をしても元が取れない。とりあえず内部留保しておこうとなる。その資金をもとにM&Aで生き残りを図ろうとしている企業もあります」

■「低収入でも幸福」という発想が必要

ただ、販売価格が上がらなければ、年収400万円でも暮らせる。これからは高度経済成長を求める時代ではないと白井さんは続ける。

「政府は高い成長率を掲げているけれど、高齢化する社会で高い経済成長を維持するのは難しい。ほとんど成長しないけれど、そこそこ高い生活水準を維持する。高齢化社会なら、むしろ輸入品が安く買える円高のほうがいいのかもしれないし、低成長、低インフレで何が悪いと発想を変えてみることが必要でしょうね」

■22年の生産緑地の指定解除で地価は大幅下落する

資産の1つの不動産。この価値も東京五輪以降に大きく変わりそうだ。なかでも22年の生産緑地の指定解除にともない首都圏(1都3県)で東京ドーム1657個分にあたる7747ヘクタールという広大な土地が放出される可能性があるからだ。当然、地価は大幅に下がり、土地の有効利用としてアパート、マンションなどの建設ラッシュも予想されている(図7)。

「日本は住宅の中古市場がないのですが、これからは空き家を活かして、居住空間をもっと豊かにという方向に向かうのではないでしょうか。

地方も、人混みの嫌いな人向けに畑仕事や自然のなかで子育てができ、テレワークで仕事のしやすいインフラづくりをすれば過疎化を避けることができるかもしれません。とはいえ、これまでのような行政サービスは続けられないので、コンパクトシティ化することが求められるでしょうね」

■年金減額は必至、老後にどう備える?

年金の支給開始年齢の引き上げ、減額は避けられない。老後にどう備えればよいのか。

「日銀が株を買い支えたり、不動産投信を買ったりして、金融市場を活性化して、みんなが健全なリスクを取るようにしたにもかかわらず、個人の証券投資は減り、利回りのない現預金に回っています。日銀が想定していたのと真逆になってしまっているのです。これは非常にまずい。日銀も今の金融政策を続けるのは難しいと気づいているはずですが、それを政府がどこまで理解しているのかは疑問です」

莫大な借金を抱える国にとっては、借金の利息が増えない低金利政策は助かっているとも言える。本来、超低金利のときにこそ、政府は財政立て直しを図るべきなのだが、歳出抑制など健全化が進んでいるとは言い難い(図8)。

■「海外への分散投資」を考えたほうがいい

「金融緩和以前は、MMFや変額年金など金融商品に選択肢がありましたが、今あるのは利回りのない預金と、逆にリスクの高い仮想通貨やFXで、真ん中がない。これは不健全です」

アメリカも欧州も低金利策をやめ、正常化しようとしている。それは投資のチャンスでもある。

「リスクも踏まえながら海外への分散投資を考えたほうがいいでしょうね」

最後に五輪後の目指すべき社会とはどういうものか。軸となるのは「身の丈消費」だと白井さんは言う。

「大量生産せず、大量消費もしない。あるものを分かち合い、ゆとりを持った生活、環境に優しい社会を目指す」

社会保障費抑制という意味ではなく、多くの人が抱える「いつまで健康に生きるかわからない不安」解消のために、欧州で進む安楽死の選択の自由もオープンに議論されてもいいだろう。

「そういうことまで含め国民レベルで議論すべきときがきています。これはダメと最初から否定しないで、発想を広げ変えていく必要があるのです」

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白井さゆり
慶應義塾大学総合政策学部教授
アジア開発銀行研究所客員研究員。2011〜16年まで日本銀行政策委員会審議委員を務める。近著に『東京五輪後の日本経済』ほか。

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(フリー編集者 遠藤 成)