もう少し褒めて…。紀貫之が選んだ代表的歌人「六歌仙」、実は結構な勢いでディスられてる

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初の勅撰和歌集「古今和歌集」で貫之が紹介した六人の歌人

905(延喜5)年に成立した、初の勅撰和歌集「古今和歌集」。編纂に携わったのは紀貫之、紀友則(きのとものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の四人ですが、リーダーであったのは一番歌の才能もあった紀貫之でした。

紀貫之(狩野探幽『三十六歌仙額』)

貫之は、「古今集」の冒頭に「仮名序」と呼ばれる仮名で書かれた歌論を書いています。その中で、貫之が近代の代表的な歌人として挙げた人物が、僧正遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主の六人です。

なぜそんな人物が?六歌仙なのにひとりだけ百人一首に撰ばれなかった「大友黒主」

「古今集」成立当時はすでに国風文化が栄え始めており、漢詩ばかりもてはやしていた貴族たちも日常的に和歌をたしなむ時代でした。そんな誰もかれもが歌を詠む時代にあって、紀貫之に紹介された歌人です。どれほどすばらしいと評価するのかと思いますよね。

でも、彼らは決して手放しでほめちぎられてはいないのです。

ちょっとほめては貶す

それでは、六歌仙がどう評価されたのか、ひとりずつ紹介してみましょう。

まずは僧正遍照から。

僧正遍照は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。

「古今和歌集」(校注・訳:小沢正夫・松田成穂「新編日本古典文学全集」/小学館より)

「歌は整っているけど、真実味がない。たとえば絵に描かれた女性を見て心を動かすようなものだ」という内容。歌の内容はいいとほめていますが、そこからはただ貶す言葉が続きます。

続いて在原業平は、

在原業平は、その心余りて、詞たらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし。

「古今和歌集」(校注・訳:小沢正夫・松田成穂「新編日本古典文学全集」/小学館より)

「歌に込めた情熱が多すぎて言葉が足りていない(表現が不十分)。しぼんだ花がすでに色褪せているのに香りが残っているようなもの」という評価。在原業平は「伊勢物語」の昔男のモデルとされ、数々の女性と浮名を流した人物です。「心余りて、詞たらず」というのは言い得て妙かもしれません。ただ、情熱的であることはほめていますが、歌の表現に関してはいまひとつといったところでしょうか。

文屋康秀は、

文屋康秀は、詞はたくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人のよき衣着たらむがごとし。

「古今和歌集」(校注・訳:小沢正夫・松田成穂「新編日本古典文学全集」/小学館より)

「言葉の表現は巧みだけど、その巧みさと歌の内容はしっくりはまらない。言うなれば、商人が立派な衣をまとっているようなもの」という評価。先ほどの業平とは違って言葉巧みに操る歌人ですが、その表現力と歌の内容がそぐわない、ということでしょう。

喜撰法師は、

宇治山の僧喜撰は、詞かすかにして、始め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし。

(中略)

よめる歌多く聞えねば、かれこれをかよはして、よく知らず。

「古今和歌集」(校注・訳:小沢正夫・松田成穂「新編日本古典文学全集」/小学館より)

「言葉がひかえめで、歌の始めと終わりがはっきりしない。言うなれば、秋の月を見ていたら暁の雲に覆われてしまったかのよう。(中略)彼の歌は多くないから、あれこれ参照できなくてよくわからない」と評価。

喜撰法師に至ってはほめている要素も感じられません。そして極め付きは最後の「よくわからない」という言葉。なぜよくわからない歌人なのに優れた歌詠みとわかったのでしょうか。

小野小町は、

小野小町は、古の衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。

「古今和歌集」(校注・訳:小沢正夫・松田成穂「新編日本古典文学全集」/小学館より)

「昔の衣通姫の系統。しみじみ心にしみるけど、強さがない。言うなれば高貴な女性が病気で苦しんでいるさまに似てる。ただ強くないのは女性だからだろう」という評価。女性の歌だから強くないという評価はちょっと……とこじつけ感も否めませんね。

大友黒主は、

大友黒主は、そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の花の蔭に休めるがごとし。

「古今和歌集」(校注・訳:小沢正夫・松田成穂「新編日本古典文学全集」/小学館より)

「歌のさまはよくない。言うなれば、薪を背負った山人が花の蔭に休んでいるような感じ」という評価。こちらもとくにほめられている要素はありません。

それでも真の歌のあり方を知っている

ほめているんだかいないんだか、貶している部分のほうが多い評価でしたが、それでも貫之は最後に、

このほかの人々、その名聞ゆる、野辺に生ふる葛の這ひひろごり、林に繁き木の葉のごとくに多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし。
「古今和歌集」(校注・訳:小沢正夫・松田成穂「新編日本古典文学全集」/小学館より)

と、「このほかの人で歌詠みとして有名な人はたくさんいるけど、詠めば何でも歌だと思っていて、真の歌のあり方を知らないのだろう」と言っているのです。難点はあれど、貫之は六人を真の歌詠みとして評価しています。最後の付け加えこそ、この「仮名序」を読んだ歌人にとっては痛烈な皮肉だったでしょう。

なにしろ、「古今集」編纂を推していた藤原時平のような権力を持つ上流貴族などはほとんど自分で歌を詠むことはなかったといわれています。

六歌仙に対しても歯に衣着せぬ物言いですが、当時の藤原氏が牛耳る社会へのちょっとした嫌味ともいえるかもしれません。

トップ画像:歌川国貞「六歌仙」