少子高齢化は経済システムだけでなく、人々の価値観をも変えていく(写真:Rawpixel/pixta)

日本では、世界の先陣を切って未曾有の高齢化が進むため、今後は経済システムやその背後にある価値観なども大きく変わっていくと予想される。経済システムは、大きく3つのメカニズムで動いていると考えられる。税金を基礎とした公共メカニズム、需要と供給を基礎とした市場メカニズム、家族や地域での協力を基礎とした共同体メカニズムである。

この記事で伝えたいのは、次の2点だ。1つは明治維新から最近まで、日本で市場メカニズムと個人主義の重要性が増してきたのに対し、今後は共同体メカニズムの重要性が増すようになっていく、大きな時代の転換期になること。もう1つは、明治維新が危機の時であったとともに、時代の変化を先見したリーダーたちが、政治、教育、ビジネスを含む多くの分野で活躍した時であったように、今は多様な個人を大切にする新しい共同体を構築したり発展させたりしていくリーダーシップを取る人たちのチャンスの時でもあること、である。

明治維新以来の人口の巨大変動

国土交通省の「『国土の長期展望』中間とりまとめ 概要」から、日本の総人口の長期的推移と将来推計を見てみよう。


1700年ごろからほぼ一定であった総人口が、明治維新以降は急激に増加し、2004年にピークを迎えてから少子化によって減少が始まっている。江戸時代に鎖国していて国土からの食糧の生産の制限もあって総人口が頭打ちだった日本が、明治維新以降は西洋の科学技術を取り入れて経済成長をするにつれて総人口が急増した。

明治維新の時代の転換の背後には、忠君の価値観から、福澤諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」のようにすべての個人に存在価値を認めるという意味の個人主義の価値観への転換があった。特に第2次世界大戦後の日本では、イエ、ムラ、クニの共同体が弱体化していき、市場メカニズムと個人主義が発展した。明治維新以来となる2004年以降の大きな転換期では、今後本格化する人口減少社会に向けて経済システムと価値観の転換が起こりつつあると思われる。​

今後、高齢化が進むと認知症患者の人数が増えていくことが予想される。「日本における認知症の高齢者人口の将来推計に関する研究」(2014年度厚生労働科学研究費補助金特別研究事業) によると、2025年に700万人、2060年には最大1100万人が認知症になると推計されている。

認知症患者は、合理的な意思決定を行う消費者主権を実現できず、市場メカニズムを有効に使うことができないため、今後は共同体メカニズムの重要性が増していくであろう。この際の公共メカニズムの1つの重要な役割は、市場メカニズムと共同体メカニズムがうまく協同するように制度や政策を整備していくことにあると思われる。

認知症患者は公共メカニズムの活用も難しい

また、認知症患者は虐待を受けたときに公共メカニズムである訴訟を使うのが難しいことを考えると、共同体メカニズムの活用が望まれる。厚生労働省の2015〜2016年度の「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律に基づく対応状況等に関する調査結果」によると、介護老人福祉施設など養介護施設での虐待と市町村などが判断した件数は2014年度の300件から2016年度の452件と、2年間で50%以上も増加している。また、2016年度中に発生した市町村把握の虐待などによる死亡例が25人あった。

2018年3月22日に横浜地方裁判所が有料老人ホームの元職員に死刑を言い渡した川崎市の連続転落死のように裁判で争われた例もある。疑いが少しでも残れば無罪となる裁判で、認知症を発症した高齢者の被害を証明するのは困難であることにも注意を要する。

筆者は研究のために、2018年2月26日に東京地方裁判所で判決の出た千代田区一番町特養施設での虐待事件の陳述書を読ませていただく機会があったが、施設で虐待を受けたうえに無理やりに食べさせられたための誤嚥により死亡に至った可能性が強く感じられた。

しかし、一審では原告側の敗訴となった。高齢者の介護については市場メカニズムを裁判などの公共メカニズムで補完するだけでは深刻な限界があると思われる。今後、高齢者の虐待を減らしながら介護を充実させていくには介護市場メカニズムと家族などの共同体メカニズムが、補完し合うことが必要であろう。

ここで注意しておく必要があるのは、制度の設定によっては、市場メカニズムが働くと共同体メカニズムが弱体化する場合があることである。行動経済学者のウリ・ニーズィーらの有名なイスラエルの保育所の実験では、子供を迎えに来るのに遅刻した親たちに罰金を科したところ、むしろ遅刻する親が増えてしまった。その後に罰金制度をやめても、遅刻は減らなかった。

いろいろな解釈が可能だが、遅刻すると保育者に迷惑がかかるので遅刻しないようにするという共同体メカニズムが、罰金制度によって、遅刻したならば罰金を支払えばよいという市場メカニズムによって弱体化してしまい、罰金制度をなくしても共同体メカニズムは元には戻らなかった、と考えることができる。

日本の場合も、戦前の共同体が高度成長期に市場メカニズムが強化されるにつれて弱体化したので、元に戻ることは困難だろうし、個人の多様性が大切にされなかった共同体への回帰が望ましいとも思えない。誰でも認知症を発症するなど弱者になる可能性があるだけに、戦前に比べて、日本でさまざまな弱者や価値観が大切にされるようになったのは、重要な進歩であると思える。

共同体のカギは、リーダーシップにある。リーダーシップは、さまざまに定義されているが、ここではリーダーシップ論の権威であるジョン・C・マクスウェルの「リーダーシップとは影響力である」という定義を使いたい。地位があっても影響力のない人もいるし、地位がなくても影響力のある人もいるので、特に共同体の内部で影響力のある人たちをリーダーとする定義である。

個人を尊重する共同体のリーダーとは?

多様性を大切にする共同体を立ち上げて成長させていくリーダーシップとして、サーバント・リーダーシップがある。これは「俺についてこい」というような君臨型のリーダーシップと異なり、リーダーが共同体のビジョンを明確にしつつ、メンバーがビジョンに貢献できるように奉仕する奉仕型のリーダーシップである。

たとえば、スターバックス・インターナショナル元社長のハワード・ビーハーは、著書『スターバックスを世界一にするために守り続けてきた大切な原則』(日本経済新聞出版社)で「スターバックスの同僚たちにロバート・グリーンリーフの著した『サーバントリーダー』という小冊子を読むことを強く勧めている。すべての人に尽くす人間こそが最も有能なリーダーであるという考えをもとに書かれたエッセイだ」と語っている。

ビーハーが勧める1969年に書かれたエッセイで、グリーンリーフはサーバントとしてのリーダーという発想をヘルマン・ヘッセの『東方巡礼』という小説から得たことを述べている。

興味深いことに、聖書にはイエスがマタイの福音書25章25-27節で「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」(新改訳2017、新日本聖書刊行会)と、サーバント・リーダーの概念を明確に語っている。

それにもかかわらず、キリスト教が強い影響力を持った英語圏で、サーバント・リーダーという言葉が造られたのが20世紀も半ばを過ぎてからで、しかもヘルマン・ヘッセという、ヒンズー教や仏教などにも通じたキリスト教徒による小説からのインスピレーションであったことは注目に値する。サーバント・リーダーシップは、英語圏や西洋文化での直感的なリーダーシップ観とは合わず、むしろ、東洋的なリーダーシップ観と相性がよいと思われる。

日本大学アメリカンフットボール部の悪質なタックル問題で、関東学生アメリカンフットボール連盟の規律委員会が5月29日に発表した事実認定によると、内田正人前監督は君臨型リーダーであったことがうかがわれる。

2017年の全日本大学アメリカンフットボール選手権大会での優勝のように、君臨型リーダーシップが共同体に大きな成果をもたらすこともあるが、大きな危険性は君臨型リーダーの圧力により個人が犠牲になることである。

多様な個人を大切にしない集団主義が通用する社会では、個人が犠牲になっても大きく問題視されることはなかった。ハラスメントによる個人の犠牲に敏感になった現代の社会では、君臨型リーダーシップの危険性を見過ごすことができなくなってきている。

待望される日本のサーバント・リーダーたち

今後、日本のさまざまな分野と共同体で多くのサーバント・リーダーたちが輩出すれば、少子高齢化のニーズに応じる弱者と個人の多様性を大切にする、健全な共同体メカニズムが発展していくことになろう。サーバント・リーダーの重要な役割は、自分に取って代わることのできる多くのリーダーを育てていくことである。

今の日本は、少子高齢化による認知症高齢者や介護・医療費用の増加、それに伴う国家財政危機の可能性、大規模な天災や人災の増加など危機の時代である。

しかし同時に、われわれ一人ひとりが今の時代に必要なリーダーを注意深く選び、同時に、周りの人々に何らかのよい影響力を及ぼすリーダーシップを心掛けるなら、サーバント・リーダーたちが影響力を発揮する会社や学校や機関が大きく発展していき、同様な危機に直面するほかの国々の模範となれるチャンスの時だと考える。