ギグスはその高速ドリブルで幾つものチャンス、ゴール、勝利を生み出して、クラブ史上初の大偉業に貢献したが、自らはFAカップの準決勝、アーセナルとの再試合で、3人のDFを巧みな足技でかわし、強烈なシュートをゴールの天井に突き刺すという、永遠に語り継がれるゴールを決めた。
 
 この頃には、デイビッド・ベッカム、ポール・スコールズらが成長してスター選手となり、マンチェスター・Uは世界でも一二を争うほどの華やかな集団となっていたが、そのなかでも世紀のドリブルスター、ギグスは独自の存在感を示し、世界レベルでの高い人気を博した。
 トレブル達成に貢献したギグスは、同年末に欧州王者の一員として来日。国立競技場で南米王者パルメイラスとの戦いに臨み、その高速ドリブル→クロスからロイ・キーンの決勝点を引き出して、世界王座奪取の原動力となった。
 
 CLでも上位の常連となったマンチェスター・Uにおいて、戦術上でも精神的にも不可欠な存在としてギグスはチームに君臨。2000年、01年(つまり3連覇!)、03年とリーグ優勝に貢献し、05年にはイングランドのサッカー殿堂入りを果たした。
 
 06-07シーズンも30試合に出場し、自身9度目のリーグ制覇を達成。この数字は、リバプールのレジェンド、アラン・ハンセンとフィル・ニールを抜いての最高記録となった。
 
 07-08シーズンはリーグに加え、自身2度目のCL優勝。チェルシーとの同国対決となった決勝戦はPK戦、さらにサドンデスに突入し、ギグスは最終キッカー(7人目)として成功し、後攻チェルシーのニコラ・アネルカ(失敗)にプレッシャーをかけた。
 
 欧州王者として2度目の来日を果たしたクラブワールドカップでは、準決勝のガンバ大阪(5-3の勝利)にフル出場を果たしたが、2度目の世界制覇を果たした南米王者キトとの決勝(1-0)では、ピッチに立つことはなかった。
 
 ちなみにマンチェスター・Uは、この後、09年、11年にもCL決勝へ進出したが、いずれも黄金時代真っ只中のバルセロナに敗北。ギグスはいずれの試合にもスタメン出場している。
 
 30歳を過ぎても怪我が少なく、衰えを感じさせない彼は、ファーガソン監督にとって常に計算できる持ち駒であり、指揮官の期待に応え、ギグスは重要な試合で大きな仕事を果たす。また、ウイングからMFへのコンバートにもすんなりと適応していった。
 
 10-11シーズン、そして自らをマンチェスター・Uに導いてくれたファーガソン監督のラストシーズンとなった12-13シーズンでもリーグ優勝に貢献。「ファーギー・ベイブス」のひとりとして、最後の恩返しとなった。
 
 13-14シーズン、デイビッド・モイーズ新監督の下で、選手兼コーチとして24年目のシーズンを迎えたが、チームは低迷を極め、新体制は間もなく崩壊。シーズンの残り1か月あまりを、40歳のギグスは暫定監督(兼選手)として過ごすこととなった。
 
 そして14年5月19日、現役引退を発表。ラストシーズン、23年間続いたリーグでの連続得点記録は途絶えたものの、コーチを兼ねる多忙の状況のなかでも12試合に出場した。
 
 マンチェスター・Uでの公式戦出場数は963。それは2位のボビー・チャールトン(758)を大きく引き離す記録であり、二度と破られることはないといわれている。その他にも、数々の最年長記録(出場、得点など)を保持し、まさに記録にも記憶にも残るレジェンドとなった。
 
「ジョージ・ベストの再来」と期待されてデビューし、その期待以上の実績を残したウェールズの天才。そしてベスト同様、代表チーム(ウェールズ)では残念ながら、メジャーイベントに出場するという夢は叶わなかった。