ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。前編記事に続いて、映画『聲の形』について語り合います。

先行作品からの影響関係から見る映画『聲の形』


飯田 今まで山田監督が「ホドロフスキーやシュヴァンクマイエルが好き」とインタビューとかで言っていたのを読んでも「どこがですか? シュヴァンクマイエル作品で生肉が楽しそうに踊るところと『けいおん!』のキャラのかわいい動きが対応しているとか???」ってよくわからなかったけど、今回初めてわかりましたね。

藤田 え、どこ?

飯田 水にぼちゃんぼちゃん重たいものが落ちて跳ねたり、水のゆらめきの反射が壁や女の子に映るのはシュヴァンクマイエルの『アリス』だったし、ホドロフスキーの『ホーリーマウンテン』みたいに札束燃やすシーンがあったでしょ!!!

藤田 『ホーリーマウンテン』で、裸の女性を工場の機械にして、尻の型をとるシーンがあるんですが、そういうのはなかったような……。両方とも、山田監督作品の実物より、グロい作家な印象がありますが。
 映画の終わりで「これはアニメだ」って主人公が気づいたりしちゃうんだろうか、怖くなってきたな……。

飯田 ほら、原作だとうんこ頭の永束くんが映画を撮るっていう設定が、アニメ版ではないじゃない。そのかわりずっと「HOLLYWOOD」って書かれたTシャツ着てるんだけど。それと冒頭でthe whoの「My Generation」がかかるところとかでカメラが手ブレするでしょ。あれを観て、「映画『聲の形』は全体が永束くんが撮った自主映画で、この曲は島田が演奏しているという設定なのではないか」という妄想をしたw

藤田 牛尾さんのインタビューでは、イメージを監督と共有する際に、モランディ、グルスキー、ゲルハルト・リヒターが参照されているようですが、モランディは分かるけど、他のはちょっとイメージの繋がりがわからないw わかります?

飯田 リヒターはわかりますよ。フォトペインティング時代のってことでしょう、たぶん。ぼやーっとした感じ。夢のなかで輪郭線の色を変えたりしているあたりとかかな? と。
 グルスキーは……高校入ったときの将也が学校で浮いてて人がばーっていっぱいいる3DCGの奥行きある空間を移動していくあのあたりとか? 人が無数の色の束になっている感じですかね。ちょっとわからないけど。
 ジョセフ・コスースについてはもっとわからない。コスースは意味合いというよりは、将也の夢のなかでせりふじゃなくて字幕が表示されるところとか、冒頭の「a shape of voice」って出るあたりの感じにつながっているのかな?

藤田 リヒターもシュバンクマイエルも、どっちかと言うと、どろどろした精神世界を想起させるようなイメージがあるんですよね。山田作品のルックは、むしろどろどろしていない。そこの差異はありますよね。監督自身も、そこは意識してそうしていると示す発言がありました。

飯田 僕も「ホドロフスキーとかシュヴァンクマイエルとかパラジャーノフとか、監督がフェイバリットに挙げている映画作家ってみんなカルト作家で、作風が全然違うと思うんですが、どういうところに影響を受けているんでしょうか」とインタビューで訊いたことがあるんですね。そしたら、とにかく映像というものに対して、あるいは被写体に対してひたむきな愛情を注ぐという点では同じだと思う、自分もそういうものをめざしている、みたいなことをおっしゃっていたんですね。
 そう思うと、たとえば『けいおん!』メンバーに対する異様にも思える愛おしい態度、『映画けいおん!』特典ディスクに収録されているロンドンでのロケハン映像で垣間見ることができた監督の脳内で展開されている「ここに唯たちがいるんだよ!」みたいな人力AR的妄想力とか、今回ならたとえば永束くんのあのふしぎな存在感を出すためにどれだけ愛を注いだのかが漏れてくるようなあの感じとかにも納得がいく。

作中に登場する養老天命反転地の意味


藤田 作中に出てくる養老天命反転地の作者の荒川修作だって、基本的にはアヴァンギャルドの人じゃないですか。……多分、造型そのもの、画面そのもので意味を直接的に感覚させる、っていう意味においては、通じている部分があるのも分かります。形式の冒険、という側面でもそうかな。でも、見た目がドロドロしている部分はオミットされて、とw

飯田 まあでも、アニメ『日常』の山田尚子演出回はけっこうアヴァンギャルドというか、「この人、実験映画とか好きなんだろうなあ」って思ったけどね。あれも音楽と映像の組み合わせが凄かった。

藤田 『聲の形』に出てくる養老天命反転地は、多分、落下のテーマとの関係ですよね。「天命」、つまり、「死ぬ」という運命を「反転」させるために作ったわけですからね(荒川さんは死んじゃったけど)。だから、あそこに行くことで、落下の意味が反転するのは、テーマ的な仕掛けですよね。

飯田 荒川修作とマドリン・ギンズはずっと「死なないために」と言っていたわけだし。映画『聲の形』のパンフレットでは、養老天命反転地にある「極限で似るものの家」と硝子と将也という「極限で似るふたり」を重ねている的な発言を監督がしていたけど、植野と将也が「私たち似てるよね」「似てねえよ」ってやりとりがあり、結弦から将也が「ばあちゃんみたいなこと言うなよ」ってやりとりがあったあとで、硝子と将也が「極限で似るものの家」に行くわけだからね。
 小学校時代の将也が硝子を最初に見たときのせりふを借りれば「やっべ!」と思いました(ちなみにあのシーン、原作で将也が言うせりふは「変な奴!」なんだよね。これは微妙だけど決定的な変更ですね)。
 しかも原作と違って、でこぼこでケガしかねない反転地で先にコケるのは将也なんですよ。原作だと硝子が先にこけるのに。これはけっこう重要で。「すべての人間をヘレン・ケラーにする」という、あの場所の意味を考えるに。

藤田 逆に言えば、全ての人間が障害を経験する場所でもある、と。

飯田 今まで自明だと思っていた「地面」が「地面」じゃなくなるような体験をする、それがいったいなんなのかをその場で体感する場所であると。つまり、「○○しなきゃ」とか「自分は○○な存在なんだ」という前提やレッテルがぶっ壊される空間が反転地で、コケた将也はそのことを無意識に経験する。コケなかった硝子は経験しそこねる。だからこそ「私といると不幸になる」などという決めつけが言えてしまう。
 ただ、反転地が意味するものって、テンプレみたいなキャラクター表現をなるべくしないでその人物をあらわそうとする山田演出にそもそも通じている気がするんですよね。

藤田 形式を反復するのではなく、描くべき内容から逆算して表現を組み立てる姿勢は、前述の監督達と共有しているのかもしれませんね。固定観念から自由である気持ちよさがあるというか。
 ……そして、芸術の効果を信じているのだなぁ、養老天命反転地にそこまでの効果があると本気で信じられるのは、すごい。ぼくはちょっとシニカルだったかもしれない。

飯田 それは今回、まったくいわゆる劇判らしい曲をほとんどつくらなかった牛尾氏の音楽とも通じているし。あんなホワイトノイズが聞こえる映画音楽、異様ですよ。

京アニは神


飯田 けっこう精神的にきついシーンも、ときどき入る「間」のカット(草花や空を映したもの)と音/音楽と永束くんに救われていると思いました。音楽と自然音と永束くんの虚構度の高さによってリアリティレベルがコントロールされて「あ、フィクションだった」って引き戻されながら観ることができた。

藤田 むしろ「フィクションじゃない」って思うほど没入されてたんですか、それはすごい。ぼくは、最初から最後まで「アニメを観ている」って思っていたw

飯田 アニメーションという、実写と違って情報を全部コントロールして作らなきゃいけないし、それができる媒体だからこその作品だなと思ったし、そのパートナーとして牛尾憲輔という非常に偏執的でありつつリリカルな面を持った音楽家を起用したのがよかったと思います。
『響け!ユーフォニアム』第1期最終話の演出は山田さんが担当していましたが(監督は石原立也氏)、カメラ、レンズ使いは神の域で、「緊張と興奮でふわふわした気持ちになっていて、現実なんだけど現実じゃないみたい」な大会(大舞台)の雰囲気を映像化していて「ほんとすげえな京アニの人たちは……」と思っていたら、それを超えてきた。脱帽でした。

藤田 すごい観察力と労力ですからね、あれ……。監督という作家性で語ることをぼくらはやりがちなんだけど、アニメーターさん一人一人や、他のスタッフの皆さんの、目と手の成果の総合的な力なんだと思います。京都の女性たちの集団制作物という文脈で何かに位置づけることもできそうな気も(他の地域より対人関係の観察力高そうですし)。
 わざわざ絵で、人間を、人間らしく描くなんていう倒錯的なことをやり続ける京アニってなんなんだ、って、いい意味で思いましたけどね。実写でやりゃあいいんじゃないかって。でも、そうではない可能性を追求しているのでしょう。絵画が、平面のくせに立体を描こうとしたり、彫刻が、石のくせに生命や躍動を描こうとしたような、そういう逆説的なチャレンジの意味というのがきっとあるのだろうなぁ。
 実在感のある「キャラクター」をアニメーションで書くことそのものの意味というものをね、少し考えてしまいましたよ。

飯田 実写ではこれはできない。絶対こうはならない。最後の文化祭での紙吹雪の質感も、将也の水色や赤味が混じった涙もアニメじゃないと表現できない。

藤田 実写でも色いじったり画面効果で色々できるじゃないですか、最近は。それでもダメかなぁ。

飯田 いやあ、ムリでしょう。目の動きの作画とかもすごい繊細だし。永束くんとか西宮のばあちゃんみたいなデフォルメされた存在をフォトリアルな美術といっしょにして違和感なくなじませることができるのは、アニメーションだけじゃないでしょうか。
 音響派とか初期のポストロック、あるいはある種のダブみたいなものですからね、この映画は。アコースティックな音の響きだけどめっちゃデジタルで空間処理されてるとか、そういうたぐいのものですよ。トータスの2ndとか『TNT』に匹敵する衝撃を僕は受けました。

藤田 エモーショナルな要素が比較的強いほうの、っていう感じはしますが。音響派やポストロックのなかでも、エモくないやつ(無機質なノイズそのものみたいなの)はあるけど、そっちではない。

飯田 牛尾氏も山田監督もベーシック・チャンネルを集めていたと聞いて、めっちゃ納得したんですよ。『けいおん!』に「物語性がない」「起伏がない」とか言われてたけど、そういうことかって。響きや音色のテクスチャーがメロディやリズムと同等かそれ以上に重要で、徹底的にコントロールされている。その映像版。

藤田 テクスチャーの滑らかさ、肌理細やかさ、全体的な優しい快の感じ、っていうのは、よくわかります。多分、逆に、ぼくはそのせいで物足りない感じがしますが……それは趣味でしょうね。

飯田 藤田くんはキング・クリムゾンが好きだもんね。confusion will be my epitaph(混沌こそ我が墓標)だと……

藤田 キング・クリムゾンは凄いですよ。70歳を超えたおじいちゃんが率いているのに、7人編成のうち3人をドラムにして、ドカドカ鳴らしまくって、邪悪で下品なリフを弾きまくっているんですからw
 でも、音楽の趣味で言えば、そうかも。ぼくは、それぞれの楽器が衝突したり激しく押収したり緊張関係を持ったり、多様でわけのわからない音がたくさん出てきたりする音楽が好きなので、美しいテクスチャーで繊細な作品は、凄いと思ったとしても物足りないのかもしれない。
(でも、キング・クリムゾンのリーダーのロバート・フリップは、ブライアン・イーノと共作を続けているし、ソロでは音響系の元祖みたいなアルバム出し続けているので、その二つの感性は、対立するのではなくて、相補的なのかもしれない)

後編に続く