ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。今回は映画『聲の形』について語り合います。

■ワギャンランドではなかった

飯田 映画『聲の形』は『けいおん!』『たまこマーケット』で知られる京都アニメーション・山田尚子監督の最新作。大今良時による「週刊少年マガジン」連載のマンガが原作ですね。
 僕は原作も好きなんですが、原作と映画では遊園地でジェットコースターに乗るときに佐原さん(小学校のとき植野に「あいつ、服ださくね」って言われてた女の子)が先か主人公の将也が先かの順番が違うとか、養老天命反転地でヒロインの硝子が先にコケるか将也が先にコケるかの順番が違うといった細かいところから、うんこ頭の永束くんが映画を撮る話がバッサリという大きなところまでさまざまな差異がある。でも、原作厨的な「変えやがって!」という気持ちにはならなかった。映画は映画として成立していたので。

藤田 『ワギャンランド』の映画化ではなかったのだと、劇場で気がつきました。

飯田 ワギャンランド……???

藤田 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AF%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89&espv=2&biw=1920&bih=979&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwirs__UuJvPAhUB62MKHWHTDD4Q_AUIBigB#imgrc=l3DUsW1TrteBRM%3A

飯田 あー、「声の形」ってことね。たとえが古すぎて20代以下にはわからないですね。老害乙。

藤田 教養が足りないよ! ……さて、気を取り直して、内容の話を。えーと、耳が聞こえない女の子をいじめてた少年が、後にいじめられるようになって、自殺しようとして、思いとどまって、美少女になった女の子と再会して、かつていじめたりいじめられたりしたやつらと心の交流をする的な話、でいいですかね?

飯田 とっても悪意を感じるあらすじ説明ですね。

藤田 でも要約すると、そういうことですよね(笑)。本作は、いじめや障害について扱った作品なんで、「表現の技巧」と「描かれ方」と「現実に対する効果」などを丁寧に読み解いていかないといけない作品だと思うんですよ。既に炎上しまくってるしw しかし、倫理的・政治的批判だけでも足りない、作品の技巧などに美的に感動して内容の分析がおろそかになってもいけない。両方が、複雑に絡み合った映画なのだから、そこを丁寧に読み取っていかないと、作品に対して失礼なわけです。
 で、失礼な要約を続けると(笑)、まぁ、心の綾があれこれあって、それが、京都アニメーションの見事な映像で描かれる、と。スタッフロールのクレジットを観ると、女性の名前だらけなんですよね。些細な仕草とか、色々な心模様などを繊細に描く技術において、京都アニメーションは、アニメでできることについて革命を起こしたということは、前々から言ってますが、高く評価したい。今回は特に、「喋れない」からこそ、より視覚で感情を表現するチャレンジの勝負度合いが高まっている。その表現はとても良かったですよ。
 観た後、恋がしたくなりましたね(笑)。かわいい描写ができていたと思うし、近づくときの心理の揺れみたいなものを、アニメ的に誇張しつつも表現できていた、という意味で言っていますが。

■劇判はポストクラシカル……か?

飯田 僕は音楽担当の牛尾憲輔氏のやってるagraphがめっちゃ好きなんですよ。現役のミュージシャンの中で十指のうちに入るくらい。なので今年はagraph名義の『the shader』1枚と『聲の形』のサントラ『a shape of light』2枚の計3枚分聴けただけでもう満足。それにくわえて「山田尚子すげえ! 京アニすげえ!」と心から思えたのでメーター振り切れるくらい満足ですね。

藤田 音楽も、音響系(?)というか、繊細で細やかなテクスチャーに聞き入るタイプの音だったので、内容・テーマと合っていて、良かったですね。

飯田 牛尾氏は公式サイトのインタビューとかではポストクラシカルを引き合いに出しているんですね。
 ポストクラシカルは簡単に言うとポストロックやエレクトロニカ以降の感覚でクラシック音楽的な楽曲、あるいはアコースティック楽器による「響き」を重視したインストゥメンタルミュージックだと思ってもらえばいいかと思います。
 だけど『聲の形』はいわゆるポストクラシカルの主流の作家たちとはノイズの扱い方がまったく違う。YouTubeとかAppleMusicとかでマックス・リヒターやキース・ケニフ、オーラブル・アーナルズあたりと聴き比べてもらえばわかります。彼らはすごくスムースに聴ける音楽ばかり作っている。
 それに対して『聲の形』における異物感のある音の「かすれ」「ゆがみ」、鍵盤に爪が当たった音や椅子のきしみみたいな「非-楽音の取り込み」は、ほとんど武満徹やジョン・ケージスクール、あるいはミュージックコンクレート的なものです。20世紀の現代音楽のある種のエッセンスをエレクトロニカやポストクラシカルを通過した耳で再構築している、とでもいうか。しかもカコッって鳴ってる物音みたいなものが取材で訊いてみたらばシンセで作った音だったりした(木の鳴る音を使っているところもあるけど)。
 そういうかたちでノイズまじりのピアノの生々しい音や異物感のある音を採用することによって、画面に独特の実在感、奥行きを感じさせる空間性が生まれている。それと、山田尚子の「実写的」(だけどその実、アニメ以外のなにものでもない)な「ぼけ」「にじみ」「ゆがみ」を多用するカメラ、レンズ使いが対応している。

■垂直の運動/波紋/向き合うことができないキャラクターたち

飯田 音と映像の連動を深掘りしていくためにもまず本作の演出の特徴についてざっと眺めていきたいと思います。
 やはり京都アニメーション/山田尚子の演出はディティールがとにかくすばらしい。たとえば鳩や蝶が飛ぶカットの作画(CG?)のすばらしさ、川の水のゆらめきが橋の下に映り込んだとき美麗さ、涙の色を人物および周囲の状況で変える……そういうところが雑だったら、きっと観ていて萎えたと思います。

藤田 水の描写や、花火の滲み方とかは、目を瞠りましたね。

飯田 かつ、たんに細部に拘泥するのではなくて、反復を用いたり、上下/垂直の運動のモチーフをくりかえしたり、ストラクチャーが美しかった。
 たとえば物語前半で、ノートを橋の上で落としたときに硝子が川に飛び込むときも将也は手を伸ばしていて、でもそのときは届かない。だけど物語後半でマンションのベランダから硝子が飛び降りたときに今度は届く。それと、映画冒頭で将也が花火の音を聞いて自殺を思いとどまることと、後半で硝子が花火の音のなかで自殺を決行しようとするということが重なる。さらに言えば最初に硝子がノートを取るために飛び込むときに劇伴でシンバルがシャーン!と鳴って水の中にカラダが入った瞬間ピアノの音がくぐもるんだけど(「flw」という曲)、このシンバルロールの音は硝子がマンションから飛び降りるときに再来する(「frc」という曲)。
あと、将也がひとりで弁当を食べていて、横にまだ顔に×のついている永束くんがいるところでかかっている寂しげなピアノ曲が「htb」なんですが、この終盤で聞こえる耳鳴りのような電子音は、将也の見ている世界で人の顔についている×マークが取れるところに繰り返し使われています(しかも×の取り方、取れ方が自然に取れたのか調子に乗って取ったのかによって音の響きが微妙に違う)。
こういう反復を駆使した構成のしかたが気持ちいい。

藤田 反復、差異、転移の表現ですよね。それを説明抜きに、画面と音響によって、直感的に観客に体得させるテクニックが凄いですよね。分析的に言語化できなくても、観ている瞬間に情動的には理解しているはず。
 橋と水が、今回は繰り返し使われているモチーフでした。

飯田 水に落ちて音がして波紋が広がる、花火が打ち上がって爆発して波紋が広がる、ジェットコースターが落下して轟音が伝わる、といった垂直/上下の運動と音と振動がくりかえされる。
 たとえば、高校生になった将也が硝子にノートを渡しに手話教室に行って再会したとき硝子に逃げられて走っておっかけていくんだけど、硝子は手すりのところにかがんで隠れる、将也が大声で叫んでいてもそれには硝子は気づかない(耳が悪いから)。でも将也が手すりを叩いたときの音/振動は伝わってきて、そこで初めて硝子は将也に気づく。そして証拠がこういうふうに「振動によって音を体感している」ことを、将也は彼女と花火をいっしょに見に行ったときに硝子から言われて初めて気がつく。みたいな細かい対応があちこちにある。

藤田 波紋については、波紋同士が波と合わさって複雑な文様を描くということと、音やコミュニケーションの主題とも合っていると思うのだけれど、上下のテーマは主題とどう関係しているのかがよくわからない。

飯田 それは簡単で、この作品は山田監督の前作『たまこラブストーリー』以上にうつむいているカットが非常に多いわけです。まっすぐ前を見られない人間たちを描いている。
 しかし硝子なら将也が入院して病院で永束くんと対話して以降、将也なら病院を抜けだして橋の上で硝子と再会して以降、まっすぐ前(横)を見られるようになる。ハイライトは文化祭でみんなの顔についていた×が取れて、将也がまわりの世界を見られるようになるところですけど。こういう上下の視線の運動と水平の視線の運動が、落下や上昇の反復と関係している。

藤田 登場人物が下ばっかり向いているから、落ちやすいのかw
 それぞれに違うシチュエーション、意味で、落下・飛び込みがあるんですよね(遊びで川に飛び込む、自殺しようとする、川に落ちたノートを拾おうとする、みんなで遊びに来た遊園地でジェットコースターに乗る、デートしている途中に滑り落ちる)など。なんでこんなに「落下」が多いのかなと。(花火と、ジェットコースターの落下の前が、上昇かな)

飯田 硝子は、音は聞こえなくても振動と重力は感じますからね。そういう世界を体感してほしかったのでは。

藤田 なるほど。佐村河内守さんが、聞き取れないけど振動としてなら分かる、と言っていたぐらいの聴力なのかな、西宮は。補聴器を付けていれば微かに聞こえるかも、的な感じなのでしょうね。その補聴器のせいで、本当に耳が聞こえないのかと疑われている場面もありましたが、
 不思議なのは、落下が、単に悪いものとして描かれているわけでもないというところで……。

飯田 今いるところからのジャンプ、飛躍でもあるからね。小学校時代はあんなにポンポン川に飛び込んでいた将也が、遊園地でジェットコースター乗ったときにはビビりまくってる、という対比が象徴的ですけど。
 これは僕の見立てだけど、劇判で用いられている楽器はピアノ、マリンバ、シロフォン、あとはキックの音で、電子音を除けばほとんどが上下に叩いて音を出す楽器なんです。そういう面でも音楽と画面も対応関係にある。
 音楽で、ギターが入ってドラムが入って、というバンドっぽい曲になるのは(劇中歌的な劇伴曲を除けば)将也が入院したあと硝子が永束くんを皮切りにみんなに謝りに行くところだけであり(「svg」という曲)、ヴァイオリンという横に引いて音を出す楽器が入るのは硝子と将也が走って橋の上で再会する直前の曲「slt」だけです。

藤田 水平移動の画面は結構頻繁にあるんですけどねぇ。

飯田 高校に入ってからの将也はゆっくり歩いたりチャリに乗ったりという水平移動はあるけど、人の顔は全然見てない。「うつむいてると楽」って文化祭のときに将也が硝子に言ってたでしょ。

藤田 学校では俯いてましたが、移動のときは画面が水平なんですよね。

飯田 まわりに人がいないからね。そしてそういうときは人の顔どころか景色すら見ていない。それは高校に入ってすぐあとかかる曲が「lit」そして「bnw」であることに象徴されている。「lit」は「light」という意味で、最後に文化祭のところで「lit(var)」というバリエーションがかかることを思えば、高校に入って将也の光は閉じた、あるいは感じられなくなったという対比になっていることがわかる。
そして「bnw」はサントラCD『a shape of light』の2枚目に別バージョンが収録されていて、そのタイトルは「black and white」。将也の世界は色彩が失われてモノクロームになった、ということです。将也は光と色を感じられない、なぜなら「見ていない」「見ようとしない」からです。
 山田作品では(少なくとも近作では)、人と人が真正面から同じ目線の高さで向き合うのは本当に特別なシーンだけに使われる構図なんですね。『たまこラブストーリー』でもそうでした。
 今回はけっこうあるけど、やっぱり大事なところにしか使われていない。佐原さんを探しに将也と硝子が電車で移動するところ、結弦がばあちゃんに「食べる」って言うところ(そのあとばあちゃんは死ぬ)、将也が入院したあと硝子がみんなに謝りに行く、橋の上での将也と硝子の再会。とかね。
 あと、山田監督は二人が真横に座って目線を合わせない、ってカットもよく使うけど、今回は永束くんと知り合う前に将也が弁当喰ってるところとか、遊園地で島田に会ったあとの将也と植野とかね。いかに目線を合わせないか大会みたいな映画だった。
 映画『聲の形』は植野の脚がエロいのがすばらしいわけですけど、なんであんなに脚が映るかと言えば、目線を合わせないで下ばっか向いているからですよ。
 山田尚子といえば『ハルヒ』の演出担当回や『映画けいおん!』をはじめ、登場人物の心情や性格を「脚」にフォーカスしたカットによって演出することで知られていますが、今回は植野にしても川井さんにしても露骨にメスの匂いがする脚をしている。これは監督のキャリアのなかでは初ではないかと。
 山田監督は植野をいじましい存在として撮っていて、終盤、将也から「ありがとな」って言われると駆け足になるところとか、最高ですね。原作と比べるとわかるけど、意図的にブサイクな顔とかこわい顔なるべく映さないようにしている(将也が入院したあと硝子を柵にぶんなげるところとかに顕著)。

■くりかえし使われている曲には意味がある

飯田 で、話を戻して、映像における反復と、音楽における反復が幾重にも対応関係にあることについて語りたいんですけども。
 これは牛尾氏がいくつかのインタビューで語っているけど、この作品ではバッハの「インベンションNo.1」が全編に、要所要所で流れる。それはあの曲が「ピアノの練習曲」であり、全編を通じて将也が(生きることの?)「練習」をする、そして文化祭のゲートをくぐる直前で「インベンション」が終わるという構成になっています。
 そもそもバッハは反復を特徴とする作曲家だし、牛尾氏がこの作品以前からリファーしている作家はスティーヴ・ライヒでありマニュエル・ゲッチングであり、やっぱり反復を基調とするミニマルの作家です。

藤田 ライヒは、反復しながら繊細な差異の部分を聞かせていく作家でもありますね。

飯田 楽曲がミニマルに反復するものであり、同時に、曲の使い方も反復させながら変化を見せていっている。
 サントラを聴くとわかるけど、この作品では「lvs」「lvs(var)」とか、「van」「van(var)」とか、バージョン違いの曲がけっこう使われているんですね。
 で、作中のどこで使われているのかを見ていくと、やっぱり対応関係にあるわけですよ。「lit」は先ほど例に出しましたが、「van」は将也と硝子が電車に乗って佐原を探しに行くところ、「van(var)」は将也と硝子がやはり電車で養老天命反転地に行くところでかかっているはずです。同じようなことをしているのに全然状況が違うよね、というところでバリエーションの曲がかかる。
 それから、将也と永束くんがハンバーガー食べてるところでかかってる「laser」というディスコ曲は文化祭で将也のクラスがやってる「宇宙喫茶」でもかかっているし、植野が働いている猫カフェでかかっているTB303がビヨビヨいってる「(i can)say nothing」は、将也が退院して植野と話したあとの実家の美容室でもかかります。つまり「laser」は将也と永束くんの友情をあらわす曲であり、「(i can)say nothing」は植野曲なわけです。
 こういう反復にいちいち全部意味がある。

藤田 come out, show meって感じですけどね、映画観てて、植野に思うのはw

飯田 「(i can)say nothing」は歌詞を聴き取ってほしいんだけど(サントラにも歌詞カードは付いてません)、どう聴いても植野の将也への気持ちを代弁してるんですよ。「言えない」っていう恋心を。
 ちなみに「ミュージックマガジン」でした牛尾インタビューでは(僕はQJ、ミュージックマガジン、excite、Febriで4回牛尾氏に『聲の形』についてインタビューしているのですが……)、サントラ2枚目の最後に入っている未使用楽曲「speed of youth」は映画では描かれていない、そのさきにあるだろう彼らの「青春の終わり」、冒頭のthe who「my generation」に対応する『さらば青春の光』を意味している曲だそうなので(詳しくはthe whoや『さらば青春の光』についてググってみてください)、映画とサントラでも反復/対応関係があるという作品になっている。
 全体に過剰というかやりすぎというか……『シン・ゴジラ』くらいあちこちに無数に小ネタが詰め込まれているので、サントラ聴き込みまくって映画を繰り返し観ると、よりわかる作品だと思います。

中編に続く