IT記者から漫画家へ―― 山田胡瓜が描く、テクノロジーと人類の未来

取材・文/照沼健太
ジャンプ黄金期世代のはずが…
――漫画家を目指したキッカケは何ですか?
子どもの頃から絵を描くのが好きで、いつからか覚えてないくらい昔から漫画家になりたかったです。中学・高校と運動部に入っていて、その時期はあまり描かなかったりもしましたが、漫画家になるぞという意志がブレたことは一度もありませんでした。
――子どもの頃〜学生時代はどんな漫画を読んでいましたか?
最初に読んでいたのはコロコロとかボンボンです。その後、ジャンプ黄金期世代のはずが、なぜかジャンプは読んでいませんでした…あまのじゃくな性格なんですよね(笑)。でも、学校のクラスで友だちから回ってくるから『スラムダンク』などの有名作品は読んでいたし、『ドラゴンボール』などは単行本で買っていました。
――たしかに『AIの遺電子』や『バイナリ畑でつかまえて』は、「友情・努力・勝利」というジャンプ的な方程式では描かれてないですよね。
思春期に影響を受けたと思うのは、浦沢直樹さんと江口寿史さんです。それと図書館で読んだ手塚治虫の『火の鳥』。子どもながらに「これはスゴい」と感じました。僕はSF要素とか、輪廻転生のような宗教的な要素がある作品が好きなんですけど、『火の鳥』はまさにそれで。ほかには宮崎駿さんの漫画版『風の谷のナウシカ』もバイブルです。
――大学は美大ではなく、早稲田大学へ進学されたんですよね。その理由は?
美術大学に行きたいという気持ちもあったんですけど、やはりひねくれていたので(笑)、「絵だけが漫画じゃない。いろんな知識が必要だから、普通の大学に行って勉強したことが活きるんじゃないか」と。だから、大学でも漫研には入りませんでした。
――大学時代には漫画を描かなかった?
いえ、自分のペースでのんびりと描いてました。今の週刊連載のペースからすると考えられないくらいに…それこそ4年間で2〜3作品くらいかな。最初に描いた作品は、ビッグコミックスピリッツに持って行きました。当時、浦沢直樹さんが連載していたというのもあって(笑)。
――持ち込みされたんですね。編集者の反応はどうでしたか?
その作品で賞はとれなかったんですけど、担当さんがついてくれました。その後は自分がバレー部だった経験からバレーボールの話を描いたりもしていたんですけど、いつのまにか就活の時期になって…
――就職しないで、漫画を描き続ける!とは考えなかった?
フリーターになる勇気がなかったんです。親にも言い訳がつかないですし。それに漫画は時間さえあればどんな環境でも描けるので、就職することに対してそれほど悲観的でもなかったですね。
生粋の“アナログ野郎”がIT記者へ
――大学卒業後はIT記者の仕事に就かれていたんですよね。
大学で就職の合同説明会があったんですけど、みんなスーツ姿のなか私服でフラフラしていたら、ITmediaの人に声をかけられたんです。僕の家にはまともに動くパソコンもなく、ITのことを何も知らなくて、「ブラウザってなんですか?」という状態だったんですけど(笑)。
――えー、そうだったんですか!
もともと本当にアナログ野郎だから、今、文章の語尾に「w」をつけているのを当時の自分が見たら「何やってるんだお前!」ってビックリすると思います。「オタクになっちまったのか!」と(笑)。
――(笑)。
ITmediaでは6年くらい働いていたんですけど、そのあいだにちょっとずつITのことが好きになっていきましたね。たとえばスティーブ・ジョブズのエピソードとかもまったく知らずに生きてきたんですけど、そういうのが大好きな人たちが周りにいるから、彼らの話を聞いているうちに「インターネットっておもしろいな」と思うようになりました。
――IT記者時代の経験は漫画制作に活きていますよね。
確実に。あの会社に入らなかったら、きっと『AIの遺電子』は描いていなかったと思います。
――会社員として仕事をする一方で、漫画も描き続けていたんですよね。
はい。社会人になってから完成させたものをアフタヌーンに持って行き、四季賞の佳作をとり、2012年に『勉強ロック』で四季大賞を受賞しました。そのタイミングで会社を辞めたんですよね。
――漫画家として食っていけるぞ、という手応えみたいなものが…?
手応えを感じたことは、今もないです(笑)。あの頃、平日は仕事をして週末に漫画を描くという生活をしていたんですけど、「このまま記者をずっとやっていくのか? お前は漫画家になりたかったんじゃないのか?」と自問自答した結果の決断です。漫画を描く時間がとにかく欲しかったから。