「村上隆の五百羅漢図展」は被災者への鎮魂か、それとも作家個人の魂の救済か

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村上隆による国内では14年ぶりとなる大型個展「村上隆の五百羅漢図展」についてライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんが語り合います。


観る者を圧倒する物量と巨大さ


藤田 日本を代表する現代アーティスト、村上隆の、日本での久々の個展です。森美術館で行われた「五百羅漢図展」。震災を受けて、宗教性を込めて作った全長100メートルほどの作品が見所で、かつてカタールで展示されたんですよね。

飯田 村上隆といえば「オタクの魂を搾取している」みたいな批判がテンプレとしてあるわけですけど、今回はそういう印象を与えるような作品はないんじゃないでしょうか。

藤田 オタク文化的な意匠の作品は少なかったですね。塗りとか線のレベルではあると思いますが、全体的にオタク文化の搾取みたいなものは、直接的にはなかった。

飯田 むしろ東京芸術大学の日本画専攻で初の博士号取得者となった村上隆の面目躍如というか、現代美術の文脈に日本画を接続させつつ、とにかく物量と巨大さで観る者を圧倒するものになっていた。

藤田 日本の伝統的な美術や哲学を、アニメやネットの感覚を踏まえてアップデートする……というような作風が今回は全面的に展開されていましたね。これ、正直に言うと怒られるかもしれませんが、全体が、あんまりピンと来なかったんです。
 でかいからこそ、細部がちょっとおろそかになっていたせいかもしれないし、あるいは、ぼくが日本の伝統の文脈をきちんと知らないからかもしれないし、あるいは、この薄っぺらさ自体が、何かこの展覧会の重要な要素なのかもしれないですが、震災を受けて「救済」みたいな、そういう迫力は感じなかった。

飯田 そうなんだ? 僕は今までの村上作品のなかでもいちばんいいと思った。と言っても村上作品の個展は日本では15年くらいやってなかったわけだけど……そのむかしパルコギャラリーや東京都現代美術館で開催された展示のころとは比べ物にならないくらい作家としての凄みが出ていた。
 描かれている羅漢は病んでいる顔が多くて、村上さんの絶望感や諦念をすごく感じた。「カタールの王女から依頼を受けて制作された」云々というエピソードを聞いて「またバブってやがんな、ケッ」とか思ったひとは見に行ってから判断したほうがいい。

藤田 「死」をイメージする髑髏もモチーフとしていっぱい使われていますが、それもアニメっぽくて……でも、その薄っぺらい宗教性こそが、彼の提示しようとしたものだとしたら、真剣に考えなきゃなと思いましたよ。押井守でいう『イノセンス』や『アサルトガールズ』のような印象です。

飯田 本人も言っているけど「死」は現代美術ではお約束的なモチーフのひとつで、気合いを入れて取り組まなければいけないテーマではあるけれども、それ以上のものではないと思った。つまり現実の人間の死ではなく、アート界における死の表象という文脈のほうがでかいんじゃないですかね。

藤田 平面(絵)と立体(彫刻)を中心としていて――それは美術の王道なのですが――なにか、それで物足りないのかもしれない、とも考えました。インスタレーションのようなものがあまりなかったせいかもしれない。
 しかし、何故ピンとこなかったのか、自分でもわからない。ずっと考えているんです。理屈で考えれば、ぼくが好きなもののはずなんですが。

鎮魂とか震災とか感じるものだったか?


藤田 率直に訊きますが、あれに、鎮魂とか、震災とか、感じました?

飯田 いや、もっと作家個人の諦念とか絶望を感じた。「どうせこんだけやっても、ほとんどのやつはわかってくんないんだろうなあ」みたいな悲哀を。そういう意味で染みた。たくさんのひとが亡くなった震災の鎮魂として描かれた作品に美大生とかが200人くらい動員されて、作業のつらさと村上隆による罵倒(制作プロセス自体も展示対象になっていて、村上隆が書いた「ちゃんとやれ!ボケ!」みたいな指示も見られる)によって次々に辞めていきながら完成した、というのがねじくれてるなあと。

藤田 そうですね、それで言うと、個人的な作品の方が、いいなと思ったんです。「貧」っていう字が書いてある作品や、なんか色々字が書いてある自画像や、最後の方にあった「魂が死んだ後も残るのは〜」というテーマの黒い絵とか。集団の救済のテーマの大作よりも、そっちの方がぼくには響いた。
 日本の伝統的な死生観、宗教的な救済、みたいなもののアップデートに、どこまで成功しているのか……。公式HPに「五百羅漢とは、釈迦の教えを広めた500人の弟子である聖人たちで、煩悩を滅し人々を救済したとされています」ってあるんですが、会場の人はスマホで写真撮りまくって、めっちゃ煩悩に溢れていて、救済もクソもない。あの会場の空気がよくなかったのかもしれない。金とか欲望がテーマの作品も多いので、わざとな感じもしますが。作品も、もっと山奥の寺とかで静かに見たら違ったのかも。

飯田 その聖俗が分離されていないのが非常に日本っぽいところだと思うw

藤田 産経ニュースのインタビューで村上隆が「五百羅漢は、500種の人の苦しみを、癒やしてくれるという逸話もある。震災という、死生観のぎりぎりのところが問われるような状況が出現し、五百羅漢というモチーフは、俄然(がぜん)リアリティーを帯びてきた」って言っているんですが、でも、村上隆がアートとしてそれをやらなくても、オタクカルチャーそのものが勝手にそういう機能を果たしていて、(良くも悪くも)苦しみを癒したり死を忘れさせたりしていると思うんですよ。「ごちうさは禅!」とか「ラブライブ教」もそうですが。
 そのオタクカルチャーに対し、村上隆は、現代アートとして、どう対抗できているのか、どう異なった存在価値を示せているのかが、なかなか見つけにくかった。
 ただ、この薄っぺらさ、軽薄さ、何も感じなさ、みたいな突き放した感じこそが、逆説的に、何か震災後のありのままの日本の姿を突きつけてくるというか。この日本のどうしようもなさという絶望、あるいは、救済、みたいな、ヘンな逆説的な次元に触れる気配もあって、ちょっとうそ寒く恐ろしいビジョンを垣間見た感じがします。

むしろ作家の諦念が込められている?


飯田 村上隆が自分の魂の救済をしようとしたものだと思って観たほうがいいんじゃないかな。村上さんは「最近の若者」や「日本の現代美術界」や「日本人」に対してしょっちゅう説教しているけど、あれは期待の裏返しでしょう。あるいは「俺こんなにがんばってるのになんで君たちついてこないの」みたいな絶望と憤慨。本人は、宮崎駿に憧れてアニメーターを志すけど挫折して日本画を専攻した。でもそこでもトップになれなくて挫折。今度は現代美術に行くけど日本人はほとんど理解してくれなくて海外に行く。海外で評価されても、私金を投じて後塵育成しようとしてもやっぱり日本人はディスってくるし、自分より世界的に評価される若いやつも出てこない。こりゃだめかもしれない、俺どうしたらいいの。みたいな苦悩を五百羅漢図からは(勝手に)感じた。

藤田 確かに、ご自身の諦念は感じましたけどね……。でも、ご本人は、ツイッターなどを拝見するに、いつも怒っていて、諦念されている感じの方ではない。もっと猥雑でエネルギッシュでユーモラスな部分もあるわけじゃないですか。

飯田 「スーパーフラット」と言っていた15年前はアートと同時代のサブカルを融合しようとしていたけど、五百羅漢をはじめ最近の作品は日本ないしアジアの美術を西洋のアートと接続させるという歴史的射程の長い仕事にシフトしていて、それはやはり現在の状況への失望と、未来への希望(後世に評価されればいい、歴史に残ればいい)があいまっているんじゃないでしょうか。

藤田 ……わからないですね。それは、ぼくの現在の感性では受け止めきれない。何年か経って、自分自身の人生観が変化したときに、また観てみたいですね。
 美術史家の辻惟雄さんとの「ニッポン絵合わせ」の中で、村上隆が自分自身を逆さ吊りにする作品があったじゃないですか。あれ、ぼくは結構好きでした。小品ですが。そういう側面を削ぎ落して、全体的にソフィスティケートされた村上隆像を提示しようとしていたのが、ぼくには物足りなかったのかもしれない。

飯田 洗練されてたかな? あんな馬鹿でかい絵を描くのって、物理的に相当大変だけどね。

藤田 美術の歴史的射程の話ですが、岡倉天心が『東洋の理想』でやったように、日本美術を西洋に向けてパッケージングする……という意味では、東京藝大の使命を引き受けて、背負っているようには、確かに見えます。かつては、日本のオタクカルチャーを西洋のアートワールドの文脈に接続し、今度は、オタクカルチャーと日本の伝統を結び付けて新しい美を提示しようとした……それはわかるんですが、でもそれって「計算通り」すぎる感じがするんですよ。なんか、重要なのは、そこではないのではと思ったのですが。

飯田 計算というか、非常にロジカルな人なので、何をやれば現代美術の世界で評価されるかは完璧にわかる。それを実行する。やっぱ評価された。でも自分の魂はまったく満たされない。だとしたら自分が信じるアートになるようにルールを変えるしかないんじゃないか? そのためにはひとりじゃダメだ、メディアや後継者を育てたりギャラリー運営したりしないと……と思ってそれも15年くらいやってみたけどそれでもこれか、という、戦略と現実のギャップに挟まれている人ですよね。一般的にはルイ・ヴィトンやカニエ・ウェストと組んだりしてハイプだと思われてるかもしれないけど、そうじゃない泥くさいところが村上隆のおもしろいところだと思う。
 評価は割れましたが、観られるなら観た方がいいですね。間近で25メートル×4もある絵を観る機会自体そうそうないし。このデジタル全盛時代にわざわざ人間が描いたのか……というだけで何か感じるものはあると思います。

藤田 ぼくは否定しているわけではないです、観る価値はありますよ。どう受け止めるのかが難しくて、何か自分が揺さぶられていることは確かなんです。そういう経験ができることが、現代美術の、じわじわと効いてくる何かの効果なので。時間をかけて受け止めたいです。