江戸時代にスゴい防災マニュアルが存在していたって本当?
![学生の窓口編集部](https://image.news.livedoor.com/newsimage/2/6/262e8_768_f4a2825a_acb4ccb7-m.jpg)
江戸時代に起きた安政(あんせい)大地震では1万4千戸以上の家が失われたが、その日のうちに応急手当所や炊き出しが始まり、買い占め禁止令まで発令された。仮設住宅用の部材もストックされ、作り方もマニュアル化されていたため、わずか半日で千坪分の避難所が作られるなど、信じがたいスピードで困難を乗り切ったのだ。
安政大地震は江戸時代後期の1855年10月2日に起きた。マグニチュード7前後と推定され、この揺れを受けた江戸では1万4千軒もの家屋が倒壊した。午後10時頃のため火災も発生し、焼失面積は1.5平方kmと推測されている。東京ドームに換算するとおよそ115個分だから、当時の消火能力を考えれば「大惨事」以外に形容する言葉がない。ところが消火活動も避難所設営もシステマチックにおこなわれ、驚異的なスピードでこのピンチを脱したのだ。
まずは消火活動だ。地震による設備の倒壊とパニックで、火事を知らせるカネの音も鳴らなかったとされているが、危機を察知した与力/同心は鎮火に飛び回っていた。このころの消防は奉行所の仕事でもあったからだ。当時も消火ポンプは存在したものの性能はイマイチで、火を消すよりも延焼を防ぐために風下の家をブチ壊す方法がとられていた。なんて原始的!と思うかもしれないが、これが功を奏する結果となる。壊した家をすぐに復旧できるように材料がストックされ、作り方もある程度マニュアル化されていたからだ。
このおかげで、お救い小屋と呼ばれる避難所がスピーディに建設された。屋根はなにをどれくらい使う、入り口はどのように作る、などとマニュアル化されていたため、仮設とはいえ半日で約2千畳分が作られ、家を失った人たちを受け入れることができたのだ。
技術力以上に賞賛すべきは決断力だ。当日中に対策方針が決まり、翌日には市民に公表されている。抜粋すると、
・握り飯=おにぎりなどの「炊き出し」をおこなう
・5箇所の仮設避難所を設ける
・ケガをしたひとを手当する
これだけでは当たり前に聞こえるかもしれないが、
・買い占め禁止
・ほかの地域から職人を呼び寄せる
・物価や人件費の値上げ禁止
と、事態が沈静化した「あと」まで見据えて御触書(おふれがき)が出され、真の復興案が「その日」のうちに決められている。Outstandingすばらしい!増税だけに頼っている国は、ぜひとも見習って欲しいものだ。
■つらいときこそ、おいしいものを
つらいときこそ「食べ物」は心の支えになる。炊き出しによって支給された握り飯はのべ20万人超、3週間も経たない10月20日には白米ご飯=銀シャリに切り替わりのべ40万人に配られたのは、被害にあったひとたちにとって大いなる救いになっただろう。握り飯には梅干しやたくあんが付けられたとされているので、なんとも気の利いた話である。
ご存じのように、末期の江戸幕府は慢性・金欠状態だったので、最終的には市民にシワ寄せがきたというから、歴史は繰り返すといったところだ。とはいえ「備えあれば憂(うれ)いなし」の成功事例だけに見習う点は多い。だれにも「そんなこと起きないよ!」と言い切れる根拠はないのだから、せめて家族で連絡方法や集合場所ぐらいは決めておくと良いだろう。
■まとめ
・1855年の安政大地震では、防災マニュアルが大活躍
・復興の妨げとなる「物価/人件費値上げ」を禁ずる法が、翌日には発表された
・わずか半日で、2千畳分の避難場所が用意された
・握り飯+白米ご飯が約60万人分も支給され、市民は大助かり