■書籍『昭和20年11月23日のプレーボール』(鈴木明著、光人社刊)に、ボクの大好きな、こんな一文がある。 終戦直後、プロ野球復興のために小西得郎さんらの下で東奔西走した川村俊作という人がいた。日本中が空腹と飢餓に覆われていた時代、寝食を忘れてプロ野球復興に東奔西走した男だった。そして復興から30数年が経ち、プロ野球が国民的スポーツに定着した頃のある日、川村は著者の鈴木に突然、ポツンと聞いた。

「長嶋は好きですか?」

僕(鈴木)はとっさに「ええ・・・」と答えた。

すると川村が話し始めた。
「私ね、時々夢みたいに思うことがあるんですよ、昭和20年の敗戦のときに、わたしたちが夢中でプロ野球なんて、人が気狂い扱いするようなものをやっていたときに、この日本のどこかに、まだボールを握ったこともない長嶋茂雄という少年が、たしかに存在していた。そして、その男が運命的な糸にあやつられて、いまテレビの前にいるということなんですね。神様だけがすべてをその時から知っていて、じっとそれを見てきた。それなのに、あとの人は誰も知らない。そんな妙な幻想に捕らわれることがあるんですよ。そして、長嶋という、この一人の男の夢を育てるために、何千、何万という同じようにプロ野球を目指した若者の夢が消えてゆくんです。ふしぎですね。年をとると、妙なことを考えるんですよ・・・」
 (以上、『・・・のプレイボール』)


長嶋茂雄は昭和11年生まれ。小西得郎川村俊作らが終戦直後(昭和20年)、プロ野球復興にかけずり回っていた頃、長嶋はまだ9歳だった。それがその後、野球の神様に導かれるように、野球というスポーツの花形選手に成長していった。いや、そもそも長島が野球というスポーツを牽引したと言うほうが的を射ているかもしれない。
ボクはこの文章を読むたび、野球の神様は本当にいるのかもしれないと思ってしまう。 野球発展のため、それを牽引すべき最強の球団(=巨人)を創り、また長島という男をこの世に産み落とし、いわば強引に(南海でなく)巨人と長島を結びつけた。その結果、神様の思惑どおり、日本の国技と呼ばれるほどの発展を確実にした。


■一方、わが近鉄バファローズは巨人の対極にある球団として、これも神様が意図的に生み出したものではないか、ボクはそう思っている。球団創設直後から球団消滅の危機に瀕し、その後もお荷物球団と揶揄されながらも、少しずつ少しずつ成長し、見ている者に親しみを感じさせる「おらが球団」。巨人とは対極に位置する球団として、神様は意図的に創る必要があったのではないか。

2001年、北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁本塁打で劇的なリーグ優勝をした後、監督・梨田昌孝は、日本シリーズを控えて語った決意が象徴的である。
「近鉄は唯一、日本一になっていない球団です。師と仰ぐ西本幸雄さんは『江夏の21球』で敗れ去り、仰木彬さんは3連勝後に4連敗を喫しました。そんな先輩たちの無念の思いを受け継いで、今年の日本シリーズに臨みます。今この場にいる者だけでなく、近鉄51年の歴史を刻んだすべての人と戦うのです。大阪の街も不況にあえいでいます。だけど、あきらめずに挑めば成就することがあるのです。昨年まで最下位に沈んでいた弱いチームでも勝てるのです。なせば成るという言葉を思い浮かべながら、日本一へつながるトビラを、僕たちの手でがむしゃらにこじ開けに行きます」
なせば成る。最後に高い壁が立ちはだかり、結局日本一は成し遂げられなかったけれど、そのことを体現し続けたのは、ひょっとしたら神様の仕業だったのかもしれない。「江夏の21球」(1979年)しかり、「10・19」(1988年)しかり。
いまテレビには、相次ぐトラブルに見舞われながら横浜に辿り着いた中村紀洋が映っている。先頃、彼は日米通算2000本安打を達成したそうだ。国内2000本安打も、もう目前だ。岩隈久志はメジャーで活躍中である。

そして梨田昌孝石渡茂羽田耕一吹石徳一佐々木恭介藤瀬史朗らは、現在も指導者やフロントとして、球界で頑張っている(「江夏の21球」時のメンバーがこれだけ多く球界に残っていること自体、凄いことではないか)。

球団は消滅したけれど、そのDNAは彼らによって今後も受け継がれるはずである。野球の神様も、きっとそのつもりでいるに違いない。