江戸時代、大名や旗本は領内の町人や百姓に褒美を与えることが良くあった。
「この者は親孝行である」「勤勉である」
領民鎮撫の一環であり、お上の権威を示すとともに、ガス抜きの意味もあったようだ。東北絆枠、21世紀枠は、これに似た匂いがする。

21世紀枠とは、
「一般選考枠」のほかに、秋季都道府県大会において参加校数が128校を上回る都道府県はベスト16、それ以外の県ではベスト8以上の学校の中から、恵まれない環境、他校や地域に良い影響を与えているなどの理由で認められた高校が3校選出される(2007年までは2校選出、2013年第85回大会は記念大会として4校選出)。
ということだ。
東北絆枠は東日本大震災の復興支援のために今回だけ特別に設けられた。

要するに、野球だけではなく他のことで頑張っている学校も甲子園に出させてやろう、という制度なのだ。
「選抜」は、文字通り秋の大会で好成績を収めた学校の中から選考委員が「選抜」する。夏の甲子園のようにトーナメントの勝者が自動的に出場するのではなく、もともと「恣意的なもの」が介在してはいた。
無名校の選手などは、選抜で選ばれる方が、夏よりも難しいと言っていたものだ。

21世紀枠はこの「選抜」の基準に、「野球の強さ」以外の要素を加味しようとしているのだ。一見良いことのように思うが、制度的に不十分で、偽善の色合いもあるように思う。

まず、その基準がはっきりしていないことだ。「ボランティアで頑張っている」「不便な土地なのによくやっている」みたいなものは、主観によるところが大きい。

何不自由のない環境で野球をしているエリート校でも、地域振興に貢献している学校もあるかもしれない。そういう学校よりも「恵まれない学校」が選ばれるというのが釈然としない。彼らは「野球がうまいから」ではなく「可哀そうだから」選ばれたことにはならないか。
21世紀枠の候補になる学校は、それなりのレベルに達しているのだから「お情けで選んでやる」みたいな扱いはかえって失礼ではないかと思う。「僕らは実力で選ばれたい」と辞退する学校があっても良い。

一方で、21世紀枠で選ばれた学校とは実力的にそん色はないが「恵まれた環境にいた」ことで選ばれなかった学校、「野球以外に何もしていなかった」ために、選ばれなかった学校が毎回出ていることになるのだ。

そこそこ野球は強いが、勝ち抜くにはやや足りない学校は、「21世紀枠」狙いで、ボランティアをアピールしたりすることはないのか。野球は強いがアピールが下手な学校が、割を食うことはないのか。
選考基準が不透明、あいまいになることが良いとは思えない。



もう一つ言うなら、高野連の「上から目線」が気に入らない。大阪府立桜宮高校体育科の例を引くまでもなく、体育教育は今、大きな転機を迎えている。特に人気スポーツである野球部には、さまざまな利権が渦巻いている。そしてその指導法にも多々問題がある。

そうした体質を見直すことなく、表面上取り繕って権威を保っているのが、高野連という組織だ。

敢えて言えば、そういう頭の固い組織に、21世紀枠を選ぶ資格などあるのか、とも思う。

もし、真剣に「野球以外でも頑張っている学校」を盛り立てる気持ちがあるのなら、「野球しかしていない」「野球バカを生み出している」強豪校を「落とす」ことがあっても良いはずだ。
高野連は、野球部の体質をめぐる批判をかわすために、気持ちの悪い「温情枠」を作ったとしか思えない。

本当に「野球バカ」を排除して「人間性」や「文武両道」を重視するというのなら、野球留学は撤廃させるべきだ。体罰やスパルタも当然排除すべきだし、3年間1度も試合に出さないで、グランド整備と声出しだけをするような部員を多数抱えている部も排除すべきだ(これは人権問題だと思う)。高校野球の最大の問題は「勝利至上主義」にあると思うからだ。
また、生徒の授業出席日数やテストでの成績、ボランティアの日数、さらには周辺住民の評価なども考慮すべきだ。

「野球しかできない」人間、「野球さえできればいい」と思うような人間を生み出す今の制度を根本から見直すべきだ。

野球にまつわる利権が入り込む余地をいろいろ作っておきながら、「その方の行い、褒めてつかわす」みたいなことを言うのはおかしい。故ナンシー関風に言うなら「何様度」が高すぎる。