福岡ソフトバンクホークスの捕手、山下斐紹寝坊2軍行きを命じられた。午前9時30分の全体練習開始に間に合わず、秋山幸二ホークス監督から即座に2軍行きを通告された一昨年のドラフト1位捕手は、「言い訳できません」と肩を落とした。

 選手の遅刻については以前にも、元メジャーリーガーのパスクゥアル・ペレスを紹介した(http://blog.livedoor.jp/yuill/archives/51436592.html)。
 1980年代のアトランタ・ブレーブスで活躍したペレス投手は、本拠地のアトランタ・フルトン・カウンティ・スタジアムで行われる対モントリオール・エクスポズ(現在のワシトントン・ナショナルズ)戦で先発登板を言い渡されており、自宅から車で出勤した。試合開始まで3時間以上も時間があり、ペレスの自宅から球場まで車でなら20分程度。州間高速道路285から20に乗り換えるだけという、いたって簡単な道のりだった。
 しかし、ドミニカ共和国出身のルーキーは、不幸にも極度の方向音痴で、英語を話せなかった
 はたしてペレスが球場に到着したのは、試合開始から10分後。その間、チームはジョージア州ハイウェイ・パトロールアトランタ警察デカルブ群保安官のオフィスに電話で問い合わせ、先発マウンドには翌日登板予定だったフィル・ニークロを挙げていた。
 当時のジョー・トーリ監督が遅刻の理由を尋ねると、原因は迷子。ペレスは環状線の州間高速道路285を、1時間以上回り続けたという。さらに、英語を理解できないため、誰に道を尋ねてもわからなかったそうだ。

 意図的に球場に来なかったのは、1900年代にピッツバーグ・パイレーツで活躍した投手、ルーブ・ワッデル。1902年から6年連続最多奪三振のタイトルを獲得し、死後1946年には殿堂入りを果たした左腕は、球場にいるのが嫌いだった。
 登板を無視し、忽然と姿を消すのは日常茶飯事。ルーキーイヤーの対ブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)戦で、初回の守備からいきなり失踪。見事、メジャーリーグでの失踪デビューを飾った。(はたして、フレッド・クラーク監督により無事連れ戻されたワッデルはこの試合、被安打3本完封勝利した)
 ワッデルはその後も、試合中にチームを抜け出し、草野球チームのマウンドに上がったり街中のパレードに加わったり地元の消防団とともに消火にあたったり公園でワニと格闘したりと、グラウンドので大活躍。1902年にフィラデルフィア・アスレチックス(オークランド・アスレチックス)に移籍してからは、相部屋のベッドをビスケットで散らかし、ルームメイトの選手からの苦情があったため、契約条項に「ベッドで動物ビスケットを食べない」との条項が加えられた。
 とてもメジャーリーガー、いや大人とは思えない奇行の数々だが、何せ相手は大投手だ。6年連続の最多奪三振に加え、1905年には最多奪三振・最多勝利最優秀防御率投手3冠を達成。1910年に現役を引退するまで、通算防御率は2.16で、これは投球回2,000イニングス以上では歴代7位。1904年に記録した349奪三振は、左腕では4位で、チームもこんな奇人を簡単に切り捨てるわけにはいかなかった。

 ワッデルのような奇人を部下に持つ監督は、つくづく大変だ。アスレチックス時代のコニー・マック当時監督は、警察の助けを借りて、何とかワッデルの厚生に成功したが、1975年からニューヨーク・ヤンキースの指揮を執ったビリー・マーチンも、監督という激務にさぞやり甲斐を感じていたことだろう。
 当時のヤンキースは、地元のタブロイド紙に「Bronx Zoo(ブロンクス動物園)」と揶揄されるほど、個性的な選手ばかり。ロッカールームやクラブハウスでのケンカも珍しくなく、現役時代から血の気が多かったマーチン監督も、アスレチックスから移籍したレジー・ジャクソンと反目していた。
 一方、上を見れば、オーナーに君臨するのは、故ジョージ・スタインブレナー氏。監督の首を切るのがライフワークのようなオーナーで、マーチンも5回も監督就任と解雇を味わっている。

 まさに前門の選手、後門のスタインブレナーといったマーチン監督。指揮官というよりも、動物園の調教師といった方が適当かもしれない。

 そんな調教師、いや監督が掲げたスローガンは2つ。「1.ボスは常に正しい。2.ボスが間違っていると思ったら1.を見よ」だ。
 元々スタインブレナーの部屋にあったスローガンだが、マーチン監督も同じスローガンを監督室に張り、自らをふるい立たせていた。
 それでも我慢が限界に達したときには、誰もいない球場の駐車場で、スタインブレナーの愛車に、ドア目掛けて銃をぶっ放していたとか、いなかったとか。
 監督も、つくづく難儀な職業だ。


追記
 今回紹介したワッデルだが、晩年、自らの命を賭してまで、洪水から人々を救っている。この洪水が原因で、結核でわずか37歳でこの世を去ったのだが、ワッデルの死は、アスレチックスのコニー・マックと、ニューヨーク・ジャイアンツの(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)のジョン・マグローの両監督に伝えられ、両監督は自費でワッデルの墓に石の墓標を立てたという。