永遠のお姫様スター、松山容子のボンカレー

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市場や国民の食生活まで変えてしまう商品がある。
「ボンカレー」は市場規模2500億円のレトルト食品の元祖。保存食といえば缶詰しかなかった時代に、約2年間の研究開発期間を経て、1968年(昭和43)大塚食品工業より世界初の一般向けの市販レトルト食品として発売されたのが「ボンカレー」である。何よりも、3分間お湯で温めるだけで旨いカレーが食べられるということが驚きだった。発売時の小売価格は一人前80円で、当時の大衆食堂のカレーライスが100円ということから、高くて売れないという批判もあったそうだ。
しかし、世はインスタント時代。手軽さが受けて、しかもそこそこ美味しいとくれば売れないはずがない。にきびだらけの中学生の頃は学校に持っていき、蒸し器で暖めて弁当箱のごはんにかけて食べた。これは冬の風物詩で、教室中にカレーの臭いが充満したものだ(笑)。
大学に入り山登りに夢中になると、単独行のテントの中で、満天の星空を眺めながらひざを抱えて食べていた(笑)。懐かしい青春の一頁だが、今でも時々食べたくなるから、ずい分と長いつき合いなのだ。
さて、そんな「ボンカレー」が息の長い大ヒット商品になった理由として、忘れちゃいけないのが全国津々浦々に42万枚も貼られたという琺瑯看板を使った広告戦略である。


「ボンカレー」の顔になった、松山容子


大塚グループは「オロナミンC」の大村崑、「オロナイン軟膏」の浪花千栄子、「ハイアース」の水原弘、「アース渦巻」の由美かおるといった、タレントの顔モノ看板による広告宣伝を展開しており、「ボンカレー」の顔になったのは、当時の人気女優・松山容子だった。
1960年(昭和35)「琴姫七変化」で女優デビューした彼女は、1937年生まれなのですでに70代前半のお年。同番組は1962年(昭和37)まで放映されている。
1958年(昭和33)生まれの僕は、「琴姫七変化」をリアルタイムで観ていたという記憶がある。おそらく当時の人気番組のひとつだったのだろう。凛々しく美しいお姫様の大立ち回りが大好きで、風呂上りの銭湯の脱衣場で、亡くなった爺さんの膝にちょこんと座り、白黒テレビのブラウン管を食い入るように眺めていた。
元祖お姫様スターと呼ばれた松山容子は、1971年(昭和46)に芸能界を引退するが、ボンカレーのCMに出てきたときは、お姫様から一転し、落ち着いた若奥様という印象だった。
今でも看板の中で優しく微笑む彼女を見ると、妙に癒されてしまうと感じるのは、僕だけだろうか。


「ボンカレー」の琺瑯看板


さて、「ボンカレー」の琺瑯看板は現在4種類を見つけている。時代が古い順(?)に取り上げてみたい。上の写真は京都で発見したもので、1968年(昭和43)から阪神地区限定で2年間だけ発売された透明のレトルトパックがプリントされた看板である。透明パウチは合成樹脂のみの二層の加工であったため、強度に難があり、穴が開くなど事故が多発したという。また、光と酸素の透過性のため日持ちが悪く、この商品は短命で賞味期限も3ヶ月だった。
看板の特長としては、松山容子の着物が白地で、髪型もボーイッシュ。更に袋に入ったカレーをよく見ると、グリンピースも確認できる。これまで京都の他に徳島と香川で見つけているが、最近の情報では香川県の看板は、貼られていた食料品店の廃業により無くなったようだ。


次は、マニアの間で超レアモノと目されている着物の色が青地のタイプ。先に紹介したものとどちらが古いのか不明だが、おそらく同時期に着物を着替えて2パターン撮影したのではないだろうか。
しかし、さすがに女優である。首の傾げ方や顔の表情は先のものと全く同じだが、よく見ると手の指の動きが微妙に違う。カレーについては、透明パウチで皿も同じデザインを使っているが、ごはんにかかった面積も違う(笑)。
写真の看板は愛知県の食料品店で見つけた。過去の記録では石川県金沢市内にもあったとされるが、今のところ現役で残っている発見例は、この看板以外では1枚のみである。
ただし、疑問が残る点もあり、透明パウチが阪神地区限定で発売されたということに対して、この2種類の看板が比較的広範囲に貼られた事実は何を意味するのか。愛知県や石川県、徳島県でも商品は販売されていたのだろうか、気になるところだ。


いよいよマニアックになってきたが、3枚目は1970年(昭和45)から改良発売された“アルミ箔入三層遮光性パウチ”になった「ボンカレー」である。
ロゴの配置やデザインは先の2枚を踏襲しているが、松山容子の表情や髪型、着物も違う。幾分年齢を重ねただけ、落ち着いた若奥様の雰囲気が溢れている。
カレー皿も変わり、新しくなったパウチには「甘口」のロゴが読める。この年から全国発売されただけあって、看板も全国で見つけている。上の写真は奈良県のレトロな食料品店にあったもので、通常は柱から張り出して設置されるが、これは板壁に直接貼られた例だ。


4枚目はトップの写真を見ていただきたい。3枚目の看板との違いは、右下のロゴが「大塚食品」から「大塚グループ・大塚食品」となっている。よく見ると「48」の数字が入っており、これは看板の製作年の昭和48年(1973)を表している。
同様なケースとしては、同じ大塚グループの「オロナミンC」や「オロナイン軟膏」の看板にも見ることができる。
写真は静岡県で見つけたものだが、全国的に貼られたようだ。

番外編


ウンチクついでに大塚食品の広告戦略についても触れておきたい。下の写真はレトロな商店で見つけた販促ステッカーだ。笑福亭仁鶴については、1973年(昭和48)に「3分間待つのだぞ」と「じっと我慢の子であった」という流行語を生んだ「子連れ狼」のパロディCMで人気に拍車をかけ、写真のような野球バージョンもあったようだ。
また、1978年(昭和53)の「ボンカレーゴールド」の発売では、巨人軍の王貞治を起用した。それと、姉妹品として1971年(昭和46)に発売された「ボンシチュー」は、「この際、カアちゃんと別れよう」という植木等が歌う軽薄なキャッチコピーが一世を風靡した。
松山容子のパッケージについては、電子レンジによる調理が可能になった2003年(平成15)のリニューアル発売で姿を消したが、沖縄県では地域限定版として存続されており、「沖縄みやげ」として人気を得ているようだ。

真左上から…岐阜県多治見市(2006.1)/石川県輪島市(2005.10)/岐阜県郡上市(2009.6)/群馬県安中市(2008.12)

最後にウンチクをもう一つ。「ボンカレー」のネーミングである「ボン」はフランス語で「美味しい」という意味があり、関西で言う「ぼん…坊ちゃん」のことではない。
かくいうわたくしは、しばらくの間、「お盆」と関係があるのかと思っていた(笑)。
今となっては、無知なるがゆえの笑い話である。



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