サインを頼まれたときに、「自由は孤独で贖(あがな)え」という言葉をよく書くという大沢氏。その真意とは?(撮影:風間仁一郎)

直木賞受賞作である『新宿鮫』シリーズをはじめ、数々のベストセラーを生み出してきたハードボイルド作家・大沢在昌氏。作家生活40年を迎えた同氏の最新作は、北方領土の離島を舞台にした、650ページもの大長編だ。しかしその分量にもかかわらず、最後まで読者を引き付ける筆力やストーリー性が遺憾なく発揮されている。
多くの連載を抱える売れっ子だが、意外なことに、大沢氏は1日1〜2時間しか執筆しないという。限られた時間で最良の成果を生み出す働き方、そしてそれにより得られる最高のぜいたくについて、大沢氏に聞いた。

――新刊『漂砂の塔』を読みました。舞台は北方領土の離島。日中露の合弁会社で働く日本人会社員が変死し、中国語とロシア語ができるという理由で刑事・石上が送り込まれる。捜査権も武器もないなか、危機を乗り越えながら事件の真相に迫っていく、という物語です。風景や場面描写が緻密で、相当にリサーチして書かれたお話かと思っていましたら……。

実はまったく違うんですよね。見てきたようなうそを言い、ってやつです。ただ、舞台装置を決めないと、そこにキャラクターが乗っても物語が動き出さない。だから北方領土ってだけじゃなくて、たとえば気温はどれくらいなのか、木は生えているのかいないのか、建物はどういう感じなのかを、想像力で埋めながら書きました。

キャラクターもきっちり決めます。石上は語学以外何もできないヘタレで、グチや泣き言ばかり言っている。けれど決してあきらめず、追い詰められて強さを発揮するタイプ。まず、彼がどんな物語を背負えるか考えて、キャラクターが出来上がってきます。寒い場所が舞台だから、主人公が寡黙だと憂欝になっちゃう。だから物語を引っ張ってもらうために、ちょっとチャラい性格にしよう、とかね。

主人公がなんでもできたら物語として面白くない

――北方領土を舞台にしたのはどういう理由ですか。

主人公がなんでもできたら物語として面白くないですよね。捜査権も武器もないのに行かなきゃいけないという、主人公の腕を縛るための材料が北方領土だったってことだね。日本人だけでなくロシア人も中国人もいて、それぞれ思惑がある状況で、日本人が殺されたと。腕を縛られた不自由な状況の中、その謎を解くっていうのが、書いていていちばん面白いですね。

――ところで、大沢さんが書かれた原稿はほとんど赤字が入らないと伺いました。

確かに、校正校閲を通しても赤字が入らない、っていうのは昔から言われていました。けど、玄人なんだから当然じゃないかとも思うんです。真っ赤になるまで直しが入るんだったら、お前が書いていた原稿は何だったんだって話になるから。アウトプットした時点で、8〜9割は完成している状態じゃなきゃ、プロとは言えないんじゃないのと。

――推敲を重ねて何度も書き直したほうが、原稿の質は高くなるような気がするのですが……。

それは大きな間違い。ネクタイは直感で選べ、っていうじゃないですか。これもいい、あれもいいってやってると、どれがいいんだかわからなくなる。(小説は)ゼロからスタートしているから、自分の内側から最初に出てきたものがいちばん優れた状態であることが多い。そこで80点のものを出して、ブラッシュアップして90〜100点に近づけるのはいい。けれど最初のものが40点だったら、どんなに手を入れてもせいぜい60点か70点までしかいかないでしょう。

――耳が痛いお話です。その大沢さんも『新宿鮫』を上梓されるまで、なかなかヒット作が出ない時代があったかと思います。そういうなかでも、ご自分の執筆スタイルに自信を持たれていたのでしょうか。


限られた時間のなかで最良の結果を出すのがプロなんだってつくづく思いました(撮影:風間仁一郎)

確かに売れない時代がありました。『新宿鮫』で売れて、そこから怒涛のように仕事をさせられたんだけど、自分がダメになるんじゃないか、ってそのときは思ってました。同じものしか書けなくなるんじゃないかって。でも実際は全然そうじゃなくて、ものすごい量を執筆しながらも、新しいものや評価されるものが書けた。そのときに、プロってこういうことなんだなと。やたらいじくり回すからいいものができるわけじゃない、限られた時間のなかで最良の結果を出すのがプロなんだってつくづく思いましたね。

――結果が出るまで、不安とはどのように向き合ってきたのでしょう。

1979年にデビューしたんですが、(作家の)北方謙三さんや船戸与一さん、逢坂剛さんなどが同期で、自然発生的につるむようになった。皆が賞を取ったりベストセラーを出したりするんだけど、俺だけいつまで経ってもパッとしなくて。これは勝負をかけようと思って、ほかの仕事を断って、1年半かけて1本の作品に集中した。当時の俺の勝負作を世に問うたんだ。でもまったくダメで、33歳だったんだけど、作家として一生やっていけるのかと不安になりました。

結婚もしてたし、食っていかなきゃいけないから、次の書下ろしに取り掛かったんだけど、難しいこと考えるのはやめて、自分が楽しいと思うものを書けばいいやと。それが『新宿鮫』で、ドンとヒットした時、それまでのことは無駄じゃなかったと思ったんですね。努力したからって、即座に答えは出ない。タイムラグはあったけど、1年半の苦闘は必要な期間だったんだって。

執筆は1日に1〜2時間

――大沢さんの仕事のスタイルの特徴として、1日に1〜2時間しか執筆をしないそうですが、本当なのでしょうか。

本当です。俺はね、机の前に座ったら、書く以外のことをしないんだよ。トイレにも立たないで、ずっと書いてる。集中力が途切れたら止めて、はいここまでっていう感じ。今日も午前中に1時間半、『新宿鮫』の原稿を書いて、その後(本インタビューを含めた)取材がいくつか入ってるんだけど、もしそれがなくても今の時間には原稿を書いていないですね。

――いつからそのような執筆スタイルをしているのでしょう。

ずっとですね。若い頃はね、締め切り前に徹夜して何十枚も書いたけど、さすがに集中力が6〜7時間も持続しなくなった。体力との兼ね合いもありますしね。あと、そういう仕事の仕方をしても、あまり面白くないんですね。熱くなって書き上げたときは充実感があるけど、後になってみると「大したこと書いてねえじゃん」って場合もあるし。

小説って、選択肢の連続なんですよ。主人公を動かすとき、右に行くか左に行くか、その連続なわけで。それを1日で一気に描き切ろうとすると、違う選択肢を選んだ場合のことを、あまり考えなくなってくる。だけど日を分けてゆっくり書いていれば、ある程度先を予測して書ける。そのほうが優れたものになるのではと、勝手に思っているだけなんだけど。 

――気分が乗らないときの乗り切り方は?

そんなことはしょっちゅうあるけど、机に座ったら書く時間だって自分に強いるからね。どうしても気が重いときは、褒められた評論やファンレターを読み返してみて、勢いをつけないと書けないときもあるね。あと、どうしても無理なときは、(原稿用紙)2枚だけ書こうって決めてるの。書き終わって、もうダメってときもあるし、もう2枚いけるかなってなったり。もう1人の自分が、自分自身に伺いながら書いているときもあるよね。

――もう1人の自分とは、どのような役割を?

つねにもう1人の自分がいるんです。熱くなって書くと、主観的になって、読者のことを考えていない文章になっちゃうのね。ものすごく物語にのめり込んで、主人公の気持ちになって高揚しているけど、「待て待て、オーバーヒートするな」「急ぐと読者を置いてけぼりにしちゃうよ」と、斜め後ろから見ている自分がいることはあります。

――釣り、ゴルフ、料理、ゲーム、商店街巡りなど多趣味なことで知られています。そういった時間を確保するため、効率的に仕事をしている部分もあるのですか。

働くためじゃなく、遊ぶために生きています。仕事をしているときも、「宿題を早く終わらせて遊びに行こう」みたいな精神でやっています。だから仕事が終わって何もしない日って、ないですね。つまらないから。仕事をやろうって決めて、終わらせて、(趣味の)商店街巡りや飲みに行ったりしますね。

人の評価だけに頼るとつらくなる

――会社組織に所属していると、自由な生き方が難しいこともありますが、アドバイスはありますか。


やりたいことをやればいい(撮影:風間仁一郎)

やりたいことをやればいいんです。つらいことも、楽しいこともあるのが人生なんだから。仕事がつらければ、それ以外の時間にやりたいことをやればいい。趣味が何もないとしたら、まずそれを見つけようと。あなたに釣りやゴルフを手ほどきして、「面白いからやってごらん」って言ってくれる神様はどこにもいないんだから、まずあなたが楽しいと思うことを見つけるんだと。そしてつらい仕事と向き合うときに、「終わったら好きなことができる、だから頑張ろう」と思えばいいんじゃないでしょうか。いちばんつらいのは、クリアしても自分には何の喜びもないっていうことでしょうね。それだとつらいし、最後ははじけちゃうよ。


あとはどんな組織であっても、評価は人が決めるわけじゃないですか。数字を出していない人間が出世したり、そういうことがあるのが組織だから、そこに寄りかかっていると思いどおりにいかなくて、イライラしちゃうことってあると思うんですね。

選考委員が決める文学賞だって似たようなことはあります。俺も(選考委員を)やっているからあまり言えないんだけど、勝手に候補にして勝手に落として、難癖付けられるわけだからね。評価や昇進だってもしかしたら相手の気分次第かもしれない。そうした人の評価に頼っちゃうと、世の中が許せなくなっちゃうときが来るから、それとは別に努力しようと言いたいですね。

――『漂砂の塔』や『新宿鮫』では、1人で敵に立ち向かう主人公が描かれています。彼らと大沢さんの通ずる部分はありますか。

サインを頼まれたときに、「自由は孤独で贖(あがな)え」って言葉をよく書くんです。自由でいたいなら、他人を頼るなよと。好き勝手できない時間があるから、好き勝手ができる自由を得られているわけなんだと。

俺はブランド品とか高級な腕時計とか洋服とかあまり興味なくて、求めているのは1つの状態。ゴルフや釣りや飲みに行きたいと思ったら行けて、何でも好き勝手できる。そんな理想の状態をつねに求めていて、それがいちばんぜいたくなんだなって気がするの。自分が何に興味があって、何をぜいたくに思うのか。考えてみるのは何歳からでも遅くないと思いますね。