曽根悟『新幹線50年の技術史 高速鉄道の歩みと未来』(講談社ブルーバックス)
東海道新幹線開業50年を前に、今年4月に刊行。著者は工学者で、JR西日本の社外取締役を務めた経験も持つ。高校時代の1957年には、新幹線の技術的ルーツが初めて一般向けに発表された歴史的な講演会「超特急列車 東京―大阪間3時間への可能性」にも足を運んでいるというから、新幹線の歴史とともに歩んできたといえる。

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1964年10月1日の東海道新幹線の開業から、きょうでちょうど50年を迎えた。昨年、2013年の一年間における東京〜新大阪間での新幹線の輸送人員は、1億5481万6000人と過去最高を記録したという。日本の総人口を上回る数字だ。大都市間をこれだけ多くの人を運んでいる鉄道路線は世界でも東海道新幹線ぐらいだろう。

新幹線に関する書籍やムックは以前から少なくないものの、開業から半世紀を迎えるのに合わせてグッと出版点数が増えたほか、ここしばらくのあいだ、新聞・雑誌・テレビなどでも特集があいついで組まれている。

手前味噌ながら、私も4年前に『新幹線と日本の半世紀』という本を上梓している。その執筆に際してはかなりの数の資料に目を通したので、いくら新刊が出ようとも、少なくとも新幹線の歴史について新しい見地を得ることはあまりないのではないかと、不遜にも思っていた。が、それは完全な私の思いあがりだった。ここへ来て出た本のなかには、新たな事実をあきらかにしたものもちゃんとある。とりわけ、講談社ブルーバックスの1冊として刊行された 曽根悟『新幹線50年の技術史 高速鉄道の歩みと未来』は、新幹線計画時・開業当初の話から、近年のリニア開発や新幹線技術の海外輸出における課題まで、知らないことだらけだった。

たとえば、東海道新幹線が開業10年を経た1974年、当時の国鉄は「新幹線臨時総点検」を4回実施し、それにもとづいて1976年から6年にわたり、「体質改善工事(新幹線若返り工事)」と称する、線路などをつくり直す大工事が行なわれた。これは、新幹線の歴史を書いた本には必ずといっていいほど出てくるできごとだ。だが、その根本的な原因にまで触れた本は、私の知るかぎりほとんどない。それが『新幹線50年の技術史』ではくわしく説明されている。そもそもの原因は、新幹線に自由席を設けたことだったという。

毎年、年末年始やお盆の帰省・Uターンラッシュでは、新幹線の乗車率が100パーセントを超え、席に座れずデッキや通路などですごす乗客が出るのも珍しいことではない。だが、開業当初の東海道新幹線ではこれはありえないことだった。それというのも、当時の新幹線は「ひかり」も「こだま」も全車指定席だったからだ(一応若い世代向けに書いておくと、東海道新幹線に「のぞみ」が登場するのは1992年で、当時は「ひかり」が一番速い列車だった)。

だが、その原則は開業した年末、「こだま」に臨時の自由席が設置されたことで崩れる。さらに翌65年には「こだま」に自由席を常設し、「ひかり」にも一部座席にかぎっての立席特急券の発売が開始された。「ひかり」に自由席が常設されたのはもう少しあと、1972年の山陽新幹線の新大阪〜岡山間の開業時のことである。

自由席の設けられた「こだま」では、乗客が定員を大きく超えて詰めこまれ、換気不足で倒れる人も続出した。車両の重量制限は定員が乗ってすでにギリギリだったが、それを超える満員の乗客に加え、デッキ付近の空調・換気能力を高めるため設備も増やさざるをえず、大幅な重量超過となってしまう。

このころ新幹線の満員時の最大軸重は19トンに達していたのではないかと、著者は推測する。軸重とは、一対の車輪車軸が負担している車両の部分重量が左右のレールにおよぼす垂直力を指す。線路は軸重16トンで設計されていたので、重量超過で運転しているうちにみるみる劣化が進み、線路の盛り土の変形が進んで徐行を余儀なくされたり、橋梁に亀裂が入ったりした。おかげでダイヤの乱れが日常化する。

ここまで来るとさすがに放置しておけないというわけで実施されたのが、前出の「新幹線臨時総点検」および「新幹線若返り工事」であった。このときの点検や工事は、乗客の比較的少ない曜日の夜から翌日の午前中いっぱいを使って行なわれた。午前中いっぱいということは、もちろんその日は新幹線は半日運休ということになる。いまでは考えられない事態だ。著者は、この運休期間中の乗客はどこに流れたのか、高速道路や在来線の利用者数、また前後の日・時間の新幹線の旅客数などデータを洗ってみたという。その結果は拍子抜けするものだった。《日・時間・手段を変えてほかに流れたのではなく、大部分は単純に消えてしまっていた》というのだ。人々は便利な乗り物があるから利用するのであって、なければ顕在需要にはならない、というのが著者の得た結論である。

若返り工事は結果的に、このころ頻発していたストライキによる国鉄離れもあいまって、皮肉にも新幹線の輸送の信頼性を回復させることになった(利用者が減れば、そりゃ満員になることも少なくなりますもんね)。新幹線列車の平均の遅れも1分以下となり、それは現在にいたるまでほぼ安定して続いている。なお、国鉄民営化後、JR各社は高速化のため新幹線の新型車両では軸重を軽くすることに努め、現在の実質的な最大軸重は12トン程度になっているという。

本書ではこのほかにも、新幹線についてあまり知られていない史実が続々とあきらかにされる。いまひとつ例をあげるなら、山陽新幹線が1975年に博多まで延びたときには、東京まで直通で6〜7時間はかかることから、夜行列車の導入が考えられていたという。兵庫県内には、新神戸のほか西明石・姫路・相生と4つの駅が短い間隔で設置されている。これはもともと、夜中に保線作業を行なっているあいだ、単線でも列車を走らせられるよう、上下列車が追い越し追い越される待避駅として計画されたものなのだとか。

だが、当時の国鉄はストライキや労使関係の悪化などで、それを実現するどころではなかった。そのことを著者は惜しむ。東京〜福岡間は、いまの世界一クラスの高速鉄道のスピードで仮に列車を走らせたとしても、飛行機との競争では圧勝とはいかない。だからこそ、飛行機の最終便が出たあとでも乗れ、しかも翌日の飛行機の初便よりも早く到着できる場合には強い競争力があるとされる夜行新幹線が実現しなかったのは、大きな損失だというのだ。

本書には、単に歴史を振り返るのではなく、現在・未来への提言とも読めるところも多い。国鉄の民営化によるJRの発足はたしかにスピードアップをもたらしたとはいえ、一方で、全列車でサービスを均一化するなかで個室や食堂車など廃止された設備も少なくない。これで果たしてよかったのかと著者は疑問を投げかける。さらに、着工まで秒読み段階に入ったリニア中央新幹線にも一章が割かれ、時速500キロというそのスピードは従来の鉄道に対し必ずしも優位ではないことなど、意外な事実があかされている。

日本国内の鉄道には、少子高齢化などでもはや発展の余地はないとの声も聞かれる。新幹線技術の海外輸出を推し進める理由としてもよくあがる意見だ。だが著者はこれに真っ向から反論する。新幹線にだって、車両や設備にせよ、サービス面にせよ、まだまだ改善の余地はあるはずだ。それは本書に、現時点における新幹線の不十分な点があれこれ指摘されていることからもあきらかだろう。以下の一文などはとくに顕著だ。

《新幹線開業による利便性向上のかげで発生した弊害は、設備上の結果というよりは単に運用のしやすさを重視した結果としての要素が強い。国鉄の在来線時代には便利だった直通や乗り換えのサービスが、新幹線ができてから不便になってしまった事例は多い》

「運用のしやすさ」とはようするに、運行する旧国鉄・JR側にとって使い勝手がいいということだ。そこでは利用者にとって便利かどうかという視点は忘れられている。先述の「こだま」に自由席がつくられたのも、元はといえば在来線から長距離列車がなくなってしまったため選択の余地がなくなり、新幹線に立ってでもよいから乗せろという声があがったからだった。来年3月には北陸新幹線の長野〜金沢間が開業し、北海道新幹線の新青森〜新函館北斗間も現在建設が進められている。便利にはなるのだろうが、そこで置き去りにされることはないのか。本書はそれを考えるための示唆に富んでいる。
(近藤正高)