家族狩り ディレクターズカット完全版  DVD
TCエンタテインメントから2015年2月4日発売

写真拡大

震えるドラマ「家族狩り」(TBS金曜22時〜/原作・天童荒太、脚本1〜5まで大石静、6〜最終話まで泉澤陽子)が9月5日、ついに最終回を迎えた。
児童心理司の山賀(財前直見)とシロアリ駆除業者・大野(藤本隆宏)が、関係性がずたぼろになった家族を、「送って差し上げ」ていた(殺すという意味をいいふうに言い換えている言葉)ことが判明。連続して起こっていた、一家心中かと思わせて一家惨殺事件は、彼女たちに手によるものだった。
9話で最高潮に盛り上げて、最終回に突入。
山賀たちの次なるターゲット・芳沢亜衣(中村ゆりか)一家があわや惨殺! となるところ、氷崎游子(松雪泰子)、巣藤浚介(伊藤淳史)、馬見原(遠藤憲一)らの決死の尽力によって阻止されるところが、前半のハイライト。血、汗、涙、炎……によって裕福でキレイな家が戦場と化した。

そして、山賀たちが、なぜこんなことをしていたかもわかる。
折り鶴がいっぱいつり下げられた、祭壇のある部屋で、ふたりが寝ている場面は、彼らが抱えた罪と祈りが痛いほど伝わってきた。

とはいえ、どんなことがあっても、他人の家族の人生に関与していいわけがない。
游子も馬見原も満身創痍で奮闘。中でも一番の功労者は、巣藤先生。
涙ながらに、「生きてると 絶対 なんかいいことあるんだよ」という信念のもと、家族とは、家族だけでなく、ほかのいろいろな人たちと関わってできているのだから、部外者(山賀たち)勝手な判断で、家族間がうまくいってないからといって、やり直しができるできないを勝手に判断するな、と山賀たちに向かって絶叫する。

例えば、実森は家族とうまくいかなかったが、外へ出て、巣藤との友情を育むことで、新しい世界を構築しかかっていたのだ。仮に、家族がみんなで死ぬことで成仏したとしても、残された巣藤の悲しみはどうしたらいいのか。それを山賀たちはまったく考えていない。
「おまえが決めんな!」と唸る伊藤淳史の声は、悲しみを伴った怒りで、これまで聞いたことのない音となって響いた。

巣藤の涙ながらの訴えを見て、游子は亜衣に「あなたがおもしろ半分に警察につきだした人が、今、あなたのために泣いてくれてるんだよ」と言う。
1話で、亜衣は、ホテルでやらしいことをされたと濡れ衣を着せていたのだった(ひどいよね、絵だって褒めてくれたのに)。
巣藤はさらに、絶望の淵に追いやられていた亜衣に、心配するメールを送っていた。これによって、絶望にねじ曲がった亜衣の心に変化が起こるのだ。

巣藤、他人の悲しみのツボへの勘どころは抜群。だが、自分の家族とはうまくいってない。
今回の一連の家族狩り事件を経たことで、ドラマの後半、長らく会ってなかった親に会う決断をする。
事件を通して游子と出会ったことが、彼を変えたのだ。

游子も巣藤と出会わなかったら、自分の理想に反する人物を殺しかねなかった。
他者と出会うことで違った視点を得られることを、游子も巣藤は身を以て知った。
それを、游子は「家族を閉じてしまうことが悲劇のはじまり。家族をもっと開いたものにしたら」という提案で示した。
本来、彼女の仕事・児童心理司も、家族と外部をつなぐ役割なのだが、彼女は、それがうまくできなかった。でも、きっと、これからは変われるだろう。

游子の言葉で印象的だったのは、
肉体的ハンディキャップへの理解はだいぶ進んでいるが、家族をなくしたり、裏切られたり、家族というシステムになじめなかったりする人たちの、目には見えない傷やダメージに寄り添うことの必要性だ。
本当にそうだと思う。
結婚しない、子供を作らない、女性に対しても、まさにそういう視点をもっていただきたいと切に願う(自分がそうなんで・・・と半笑い)。

何にせよ、家族を開く ということは、従来の「家族」という考え方を変えて、
血縁者だけでなく、友人知人、昔でいえば向こう3軒両隣のご近所さん、などなども含めた、開かれた家族関係のあり方を視野に入れてみようということで、
極めて現代的な提案だ。
Twitterで見知らぬ人が見知らぬ人を励ましたり助けたりする世の中なのだから。
ドラマの中でも、渓徳(北山宏光)は、LINEを活用して、有益な情報を手にいれている。
このことを「情報網じゃなくて愛情だよ」と游子は言う。情報のためじゃない、愛でつながること。愛のために、情報を得る(ストーカー的なものじゃなくね)こと。そういうことって素敵じゃないか。

また、シングルマザーの冬島綾女(水野美紀)は、馬見原に頼らず、「お父さんでお母さん」という存在を引き受ける。シングルマザーではなく、ひとり2役という考え方にも希望を感じた。

綾女と別れ、妻・佐和子ともう一度やり直そうとする馬見原が、娘・真弓(篠田麻里子)の夫・石倉鉄哉(佐野和真)に、妻・佐和子(秋山菜津子)を娶るとき、「結婚というのは、親御さんが育んできた大事な命をお預かりすることなんだ、と思った」と話し、義父からもらったライター(彼があやうく殺人犯にされそうになったとき、利用された品)を鉄哉に手渡すことも、代々、命や思いを手渡していく象徴のようだ。血がつながってない男たちに引き継がれていくというのがいいではないか。

こうして、それぞれが、血と涙の川に溺れながらも、這い上がり、前を向いて歩いていくことになるのだが、最後の最後で、視聴者を安心させてはくれない。
これは「家族を開く」ならぬ「ドラマを開く」ことだと感じる。というのは、
めでたしめでたしで終わってしまうと、視聴者はすぐ忘れて次のドラマにいってしまうが、もやもやしたものを残されると、そのもやもやの感覚とともに、わりといつまでも覚えているものなので。そういう経験ないですか?
問題は終わらない。むしろ、問題は、ドラマを超えた現実でいまもなお、起こり続けていると、視聴者に考えを促す。ドラマ(フィクション)が、現実に対して開かれ、現実とつながることを求め、「家族狩り」は最後、現実に扉を開いたのだ。これもひとつの愛情だろうか。(木俣冬)