『春の庭』柴崎友香/文藝春秋(7.30発売)

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第151回もやります。芥川・直木賞の候補作をすべて読んで行う事前予想企画、どうぞお付き合いのほどを。
こちらは芥川賞です。前回と同じで★で表しているのは今回の本命度ですが、作品の評価とは必ずとも一致しないことをお断りしておきます(5点が最高。☆は0.5点)。

■戌井昭人「どろにやいと」(5回目。「群像」2014年1月号)
柴崎友香、羽田圭介のほうが最初に候補になったのは前なのだが、ここのところノミネートが相次ぎ、ついに5回目と今回最多になったのが戌井昭人だ。予選委員会に愛されたものだが、今度こそは待望の受賞が叶うだろうか。
「どろにやいと」は現代の隠れ里小説のような作品である。語り手である〈わたし〉は「天祐子霊草麻王」というお灸の行商人だ。肩こりからインポテンツまで万病にわたって効くとの触れ込みであり、〈わたし〉も子供のころから体に灸を据える習慣を持っていた。とはいえ自分がそれを商うことになるとは夢にも思わず、20代のころまではプロテストに合格したボクサーとしてその道に邁進していた。怪我が元で引退し、その後は風俗や薬物に浸るなど自堕落な生活をしていたのだが、行商人であった父親が熊に襲われて急死したため、顧客名簿を引き継いで二代目になったのである。彼は今回、日本海側の港町から三時間バスに揺られたところにある山奥の、志目掛村というところにやって来る。山岳信仰の拠点となっていることからモデルは出羽三山の付近と見ていいだろう。〈わたし〉も訪れた寺で即身仏の上人を拝まされるのである。
 無為無策に人生の時間を浪費している男という主人公像は「ひっ」「すっぽん心中」など、過去に候補になった作品とも共通している。それらの作品の主人公は性行為に対して動物のように率直な反応を示すのだが、本書の〈わたし〉も村で店舗を経営する女性に魅入られ、その足が蜘蛛のように(実際にその刺青が入っている)首を挟み込んでくるという体験を幻視したりする。その女性は村はずれのお堂で男とふしだらな行為に耽っている形跡があるのだが、それを目撃して興奮したことが原因で〈わたし〉は道を間違え、村から出られなくなってしまう。本人が「なんだか、この村に来てから今生と過去をさまよっているような気になってきました」と言っているように、生と死の淡いの場所で読者をたゆたわせるのがこの小説の狙いだろう。即物的な描写と入眠幻覚によって導かれる伝承の世界とが融合しているところがおもしろい。軽い小説であり受賞可能性は低いと思うが、日本的な死生観を扱った小説として強く推す選考委員が出れば健闘するかもしれない。★★☆。

■小林エリカ「マダム・キュリーと朝食を」(初。「すばる」2014年4月号)
「マダム・キュリーと朝食を」は、現代史を放射線と人類の関係という視野から俯瞰し、福島第一原子力発電所の事故以降の現状を見つめなおそうという試みの作品である。冒頭、人間が去り、猫たちによって乗っ取られた〈マタタビの街〉のことが綴られる(原発事故による退避区域を指しているのは明らかだ)。そこで生を受けた猫の〈私〉は、街では光り輝いているものが見えていたと懐かしく回想するが、タマゴという猫からその現象の危険な実態を聞かされ、生まれ育った街のために為すべきことをしようと〈私〉は決意する。その行動によって人類が光を手にし、制御の力を失っていく過程が描き出されるのだ。
これは幻視の小説である。猫の語り手である〈私〉と人間の語り手の〈わたし〉は、母系の祖先の記憶を遡っていくのだが、それによって描き出される年表は、必ずしも現実の時間軸とは一致していない。放射性物質の半減期という長い長い時の流れから見てみれば、1902年にマダム・キュリーが人類で初めてラジウム226の光を目にしてからの歴史など、ほんの一瞬のものに過ぎないからだ。俯瞰的な位置に立つ作者の視点からは、後に明らかになる歴史の符合などがいくつも描き出される(たとえばアメリカ第25代大統領ウィリアム・マッキンリーが暗殺されたバッファローは、新世界ではじめてラジウムの精製方法が伝えられた地だ)。また俯瞰と同時に、至近距離の視点も提供される。キュリー夫妻は自宅を研究の場として用いていた。つまりキッチンがラジウム精製の場であったわけである。食卓のような身近なもの・場所に引き寄せた記述を織り交ぜることにより、作者は読者に具体的な手触りを与えようとするのである。
第150回と同じく今回も候補になった5作中2作が初ノミネート作家だ。小林エリカはそのうちの一人で、漫画家というもう一つの顔も持っている。『光の子ども』(リトルモア)は本書の姉妹篇というべき作品で、放射性物質の光が可視化された世界が描かれている。「マダム・キュリーと朝食を」が受賞ということになれば珍しいメディア・ミックスの実現ということになるが、それを好まない選考委員もいるのではないか。評価は★★★。

■羽田圭介「メタモルフォシス」(3回目。「新潮」2014年3月号)
戌井・柴崎の両作にはそれぞれ作家の特徴がよく出ているが、「メタモルフォシス」も羽田が原点に回帰したかのような観があった。『黒冷水』『不思議の国の男子』で羽田は、男のリビドーへの執着を描いたのだが、「メタモルフォシス」は己の欲望が底なしであることに悩み、執着の果てに何があるのか、そしてそこから自己を再生させることが可能かと思い悩む男が主人公だ。
証券会社に勤めるサトウが、喫茶店でモーニングセットを食べながら、背中に「ハローキティの刺青」を背負った男の変死体が発見されたという新聞記事を読むという場面で物語は幕を開ける。実はサトウは、この世界でもごくごく小数派に属するタイプの人間であり、記事が持つ真の意味も読み取れるのである。変死体の太腿には「ぼくは豚野郎だワン」という刺青も入っていた。おそらくそれは真性のマゾヒストであり、マニアの間ではクワシマと呼ばれていた人物なのである。サトウもまた、嗜好を同じくする者であった。クワシマの嗜好からいって、彼の命を奪った一撃は女王様の手によって与えられたものであるはずだ。プレイ中の事故であったのか。想像を巡らせるうちにサトウは、自分が激しく欲情していることに気づく。
作者はサトウの会社における日常と終業後の非日常を描いていく。証券会社での彼は甘言を弄して顧客から金を引き出す、詐欺師まがいの男である。金曜日の夜、彼は上野公園でプレイに耽る。女王様による野外調教、半裸での露出放置、奴隷男三人が連なっての屈辱的な行為など、描写は詳細を極めている。おそらく選考では、この個所がリアリティを持っているか、作者が描写に淫して露悪・俗風に流れすぎていないかが議論の対象になるだろう。サトウは単なる快楽の享楽者ではなく、他の二人の奴隷を客観的に眺め、その行為を評価する批評者的な地位を与えられている。だからこそ、自身のリビドーに対して不安を抱き、危険すぎるプレイへと駆り立てられていくのである。このサトウの中にある理性と欲望の関係が図式的に過ぎると見なされることもありそうだ。やや不安材料であり評価は★★☆に留めておきたい。

■横山悠太「吾輩ハ猫ニナル」(初。「群像」2014年6月号)

今回最大の問題作はこれだろう。本篇に関する予想は「私的な感情が入って」★★★★☆。甘いのではないかって? まあ、ちょっと読んでください。
この作品には額縁が与えられている。語り手である〈わたくし〉は中国人の友人である馬さんから、自分の今の能力で読める日本語の小説を紹介してほしいと依頼される。馬さんによれば、近来の日本語の小説には片仮名で表された片仮名が多用されておりまるで暗号のようだというのである。そこで〈わたくし〉は、一昔前(以上)に書かれた小説を読めばいい、と数冊の本を貸し与えるのだが、今度は馬さんから別種の抗議が来る。漢語の使い方が読むに耐えないというのだ。特に「夏なんとかいう作家の描いたものなどは漢字の使い方からして出鱈目である」と(たしかに漱なんとか作品の、当て字・造語の多いこと)。この経験から、〈わたくし〉は暇に飽かせた小説執筆を思いつく。それも、「日本語を学ぶ中国人を読者に想定した小説」という、これまでにない需要を創出する作品である。
……と、以上は小説を読む上での前置きのようなもので、ここから「吾輩ハ猫ニナル」本篇が始まる。作中作の主人公〈自分〉は日本生まれだが、五歳のときに中国に渡ったためかなり日本語(日語)を忘れており、ほぼ中国語で思考をする人物である。当然だが文中に「片仮名」は出てこず、「馬克思(マルクス)」のように横文字は表記される。彼は授業で俳句を習うのだが、季語の代わりに「華語」を入れた俳句ならぬ「琲句(フェイクと読む)」を編み出し、悦に入ったりもしている。要するに夏なんとかの小説に出てくる「坊ちゃん」のような独立不羈の人物なのだ。その彼が査証(ビザ)の関係で単身日本に行かなければならなくなって、というのが物語の展開だ。
一つの文化を批評するのに、あえてその外側に視座を置き、文化摩擦を起こすことを故意に試みる、という手法がある。その新手が本篇だといっていいだろう。しかしそれだけでは魅力の半分も紹介したことにはならない。後半においてこの作中作はとんでもない展開をするのだが、そこにおいて初めて作者が物語の外側に額縁を置いたことの意味が判明するのである。壮大な琲句(フェイク)が本編には施されている。
多くの人には関心がないことかもしれないがどうしても書いておきたいのは、東京・秋葉原に行った主人公が友人に頼まれ「東方系列」なる同人遊戯(ゲーム)の手亦(フィギュア)を買いに行く場面があることだ。「系列」は「シリーズ」と読む。ここで「なんだ、『プロジェクト』じゃないのかよ」と呟かれた方はぜひお友達になりたいね。中国語ではそう言うのかな。東方Project自体が既存の神話や物語を解体して新たな意味を産むように要素を並び替えたものなので、ここで名前が出てくる意味は大いにある。わかってるね、作者は。
……あ、この作者の横山悠太も小林エリカと同じで初のノミネートです。

■柴崎友香「春の庭」(4回目。初出「文学界」2014年6月号)

「吾輩ハ猫ニナル」が極私的な推し作品なのだが、公平に見れば受賞作にもっともふさわしいのはこの作品ではないかと思う。ゆえに評価は★★★★。「春の庭」とは、視点人物である「太郎」が貰うことになる写真集の題名である。彼は上から見ると”「”の形になっている旧いアパートに住んでいる。二階建てで各階に四つの部屋があり、一階に亥(太郎の部屋)、戌、酉、申、二階に未、午、巳、辰の名が振られている。なぜ干支なのか、なぜ子、丑、寅、卯から始まっていないのかは不明だ。すでに取り壊しが決まっているためアパートには亥、申、巳、辰にしか住人がいないのである。ある日太郎は、辰に住む女性がベランダから隣家の建物をスケッチしている場面を目撃する。
やがて彼女と口をきく仲になった彼は、辰の住人が西という姓であるということ、「春の庭」というCMディレクターと女優との私生活を記録した写真集に彼女が魅せられ、そのためにこのアパートに引っ越してきたのだということを知る(太郎は西からダブりの「春の庭」を貰うのである)。西は「春の庭」に映っている住居にこだわっているのだが、その建物こそ彼女が覗いていた「水色の家」なのであった。
西の態度は、傍目から見ると強すぎると感じるほどだ。「春の庭」に写っているすべての部分を目の当たりにし、できれば写真に収めるために彼女はあらゆる手段を尽くそうとする。他人の生活を記録した写真集に執着するというのはストーカー的に見えるが、彼女はディレクター「牛島タロー」・女優「馬村かいこ」という固有名詞よりも、彼らがそこで生活をしていたという空間に惹かれているようなのだ。その関心は西の妄執としてだけあるのではなく、本篇には発見された不発弾、現在では暗渠になってしまっているかつての小川といった、記憶を残した土地についての記述が頻出する。東京という街にはかつて無数の人が住んだのだということ、それぞれの人にそれぞれの生活があったのだという強烈な人間への関心がこの小説には横溢しているのだ。柴崎には2012年に『わたしのいなかった街』という秀作がある。多くの人の生活と、それを打ち消す死(戦争)が街の観察という形で対比される作品だ。ひとびとの命の痕跡を小説にして残したいという強い衝動を柴崎の小説には感じる。
(杉江松恋)

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