『続 お笑いラジオの時間』(綜合図書)
ちなみに筆者がベン村さ来氏を初めて認識したのは、『浅草キッドのオールナイトニッポン』にて。ピン芸人として危険なネタを披露する、学ラン姿のベン氏をたしかに覚えている。

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夜中は、どう過ごしている? 私に関して言えば、仕事に悪戦苦闘しながらネット上を行き来しつつ、BGVとしてテレビをつけっぱなし。これが、ルーティンと言って良いだろう。
昔は、違った。昔と言っても、20年ほど前の話。小学校卒業間際から“深夜ラジオ”にハマり、自ずと睡眠時間は激減。翌朝に残る体力は微々たるもので、当然「帰宅部」一択の学校生活を過ごす。そんな、少年〜青年期であった。

当時(というか今でも)最も好きな芸人は、ビートたけし。かすかな噂で「たけしが夜中にラジオをやってるらしい」という情報を入手した弱冠12歳の私は、木曜25時のニッポン放送にダイヤルを合わせた。……が、一時間ともたずに夢の国へと落ちていくのが常。
ちなみにその頃、高田文夫はすでに番組を卒業。数年経って聞かされた話では「『たけし城』収録の合間、緑山のスタジオで軍団を聞き手に録音」という形式をとっていたとのこと。ヴォルテージが落ちるのは、言うまでもない。そして程なく、パーソナリティはたけしから当時無名の古田新太へと交代する。
現在、番組の音源はネット等で容易に入手できるものの、それだと意味合いが全く異なることは理解していただけると思う。我々世代(筆者は1978年生まれ)にとって『ビートたけしのオールナイトニッポン』は、夜空の星を見て一万年前の人に思いを馳せるのと同義。それこそ、同時代を体験した“語り部”によるエピソードこそが至福。思い入れを盛っていただき、ようやく帳尻が合うというか。

現在、発売中のムック『続 お笑いラジオの時間』(綜合図書)にて、放送作家・ベン村さ来氏のインタビューが掲載されている。
言わずと知れた『たけしのANN』常連ハガキ職人として知られる人物。同番組発の企画「TPG(たけしプロレス軍団)」打ち合わせでビートたけしとアントニオ猪木が対面した際、その場(全日空ホテル)に同席したエピソードも有名。「よくプロレスネタを書いてくるハガキ職人だから」とダンカン氏から抜擢を受け、「マスク・ド・メロン」「皮かむりん」なる覆面レスラーを高校生の身分でアントニオ猪木にプレゼンした、という偉業も耳にしている。
揶揄しているのではない。おわかりだろうか、このゴールドラッシュを!

そんな彼が『ビートたけしのオールナイトニッポン』に出会ったのは、中学2年生の頃。現在と同じく、当時は関西の吉本勢が幅を利かせ、その中で関東のセントルイスとツービートが孤軍奮闘しているという状況。当時のベン氏は、学校のカバンに彫刻刀で「たけし命」と彫るほど捧げる少年であった。

ところで、「ベン村さ来」なる名前が気になる方もいるかもしれない。この名前誕生には、ドラマがあったという。この話は、私も知らなかった。

――最初からペンネームで送っていたんですか?
ベン 最初は本名です。たけしさんが映画『哀しい気分でジョーク』に出演することになって、撮影に入ったら、必ず毎週オープニングで、「ひどいんだよ。脚本がさ」なんて言うわけですよ。「お笑いのことをやりてえのはわかるけど、コメディアンの役名で『ベン村木』はねえだろ?」(中略)とか愚痴ってて。で、たけしさんもオープニングから「どうも、ベン村木です」とか始めちゃったりするんですよね。
――たけしさんの口から「ベン村木」というワードが出たと。
ベン そのオープニングが終わったら、高田文夫先生と松尾伴内さんが出演している居酒屋「村さ来」のCMが流れて、「あっ!」って気付いて、その2つを足したんです。(中略)最初にたけしさんは笑ってましたからね。「うまいね、どうも」って。

男の子が自身の行く道に目覚めた瞬間を、「精通」と表現することは定石。この時、ベン氏は間違いなくシャセイしていたはずだ。中学生が、80年代のビートたけしに「うまいね、どうも」と言われる瞬間。その心境は、計り知れない。

ところで、浅草キッドの水道橋博士氏は雑誌「東京人」(2011年3月号)にて『ビートたけしのオールナイトニッポン』に関するエッセイを寄稿、以下のような文を発表している。
「ビートたけしは、常に『この間、ウケなくてさあ……』と、自らを笑い飛ばしていた。要するに、お笑いはウケなくても、それをまたネタに転化、まさに笑転(しょうてん)できるのだ。どんな仕事も失敗すれば袋小路に入るが、お笑いはどっちに転んだって笑殺して職業として成立させることができる。それは、なんと最強なことか!」

たけし本人にそのつもりはなかったはずだが、リスナーは勝手にその意志とセンスを受け継ぎ、勝手にイニシエーション設定で電波を受信していた。
当時、たけしは「北の屋」という居酒屋を経営しており、ANNで特に活躍する常連ハガキ職人らは同店で開かれる忘年会に呼ばれていたそう。そしてベン氏が投稿を始めた年の夏、「ハガキポイント制」なる制度がスタートしている。ハガキを読まれた者にポイントが加算され、ポイントが多い者ほど優先して忘年会に呼んでもらえるという制度だ。
そしてある日、たけしの口から発せられた一言。「マイナスポイントも付けよう。マイナス1位のヤツは、みんなでバカだって笑ってやろう」。
「これ、おかしいじゃないですか? 普通、ハガキはおもしろいから、副調整室からスタジオに入るわけですよね。そこにつまらないハガキは存在しちゃいけないじゃないですか。ということは、『つまらないハガキを書け』ってことですよ」(ベン村さ来氏)
そこからはもう、らしさ爆発。「パンツでくるんだボンカレー」「地下道の痰壺を飲みたい」など、わけのわからないネタハガキを量産し、たった一枚でマイナス5万ポイントを獲得するなど、離れ業を達成していくベン氏。狙い通りだ。
「一聴取者が全国放送で『コイツは頭が狂ってる』と言われてましたからね。しかも大好きな人に」(ベン村さ来氏)

想像に過ぎないが、もしかしたら当時の少年少女には珍しくない行いかもしれない。週に50枚のハガキ送付を自身へのノルマとして課し、もちろん学校の成績は急降下。それどころか友人と遊んだり部活に勤しむ暇さえ、当時のベン少年は失っていった。
ただ、ここからがスペシャルだ。ハガキ職人としてトップをひた走る、当時30歳の道上ゆきえ氏に目をかけられ、センスを磨くため合宿まで敢行していたという。
「一緒に高田先生の事務所にも勝手に遊びに行ってましたから。(中略)『最近、番宣ばっかりでハガキコーナーが少ないなと思うんですよね』なんて文句を言ったり。そうしたら、『うるせえよ。大人の事情があるんだ。いまは『夢工場』(87年夏に開催されたフジテレビ主催のイベント)の告知をしなきゃいけない時期なんだよ。(中略)タケちゃんだっておまえらのハガキを読みたいと思ってるけど、しょうがないから我慢しろ』って(笑)」(ベン村さ来氏)

その後のベン氏は、レールに乗る。「たけし軍団に作家部ができた」という噂を聞くと、たけしに直談判して入部。同部が解散すれば、浅草キッドに勧められ芸人デビュー。
その後、高田文夫に「おまえはもう芸人を辞めろ。作家になりたいんじゃなかったのか? なに芸人をやって喜んでるんだよ。いまここで決めろ」「俺の弟子にならなくていいから。ただ俺の周りでウロウロしてろ。仕事をくれてやる」と激を入れられ、放送作家デビューを果たした。

――振り返ってみると、ハガキ職人だった日々はどんなふうに感じますか?
ベン 真夜中の甲子園球児だったんじゃないですか。(中略)だって、紛れもなく木曜深夜1時は甲子園だったでしょう。全国の中学校、高校の子供たちが、それぞれ素振りして。ノックを受けて、腕を磨いて。
――合宿もしてましたしね(笑)。
ベン プロ野球ではスター選手のたけしさんが豪速球を投げて、それをキャッチャーの高田先生がバーンといい音をさせて捕るんです。むちゃくちゃカッコいいですよ。それで、「あんなことをやってみたい」ってみんな目指していくんですね。あのバッテリーと同じグラウンドに立つ権利を懸けての甲子園なんです。お笑い界の天覧試合ですよ。

ANN番組本『ビートたけしのおもわず幸せになってしまいました』文庫版のあとがきで、故・ナンシー関がこんな文を寄せている。
「あの頃、たけし口調の男がいっぱいいた。私は女なのでそんなことはなかったが、何かを模倣していたと思う。いや、伝染っていた。(中略)どこがどうとは特定できないが、私の中の何かの基礎がビートたけしのオールナイトニッポンによって出来上がったのは否めない」

「ガキんちょダマすのがロックだ」なる甲本ヒロトの語録があるが、ベン村さ来氏やナンシー関、浅草キッドだけではなかった。だからこそ、伝説的な番組なのだろう。
(寺西ジャジューカ)