人々の期待より、己の内なる音を追究したからこそ、ベートーベンの音楽は革新的であった。(写真=AFLO)

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最近、あるクリエーターの方と会っていたときのこと。世の中で人気の出る才能には、どうやら2種類あるという話になった。

一つは、人々が無意識のうちに欲しているものを言い当ててしまう才能。「そう、こんな言葉を聞きたかった!」というようなことを言葉にするから、人々が熱狂する。政治家ならば、選挙に通り、やがて大臣になる。

もう一つは、内面からにじみ出る言葉を発して、すぐにはわかってもらえない才能。何しろ発想が新しいので、世間がついてこられない。でも、なぜか注目される。そのうち人々が、「ああ、そういうことか」と理解して、人気が出るようになる。

どちらが上ということはない。人々が求めているものを探り当てる才能は、それ自体身につけることが難しいから、価値がある。ただ、100年後、200年後まで残るような創造は、案外、後者の、そう簡単にはわかってもらえない才能から生まれる。

最近、「現代のベートーベン」と言われて人気が出た方がいた。結局、曲は他の人が書いていて、ベートーベンの部分も演技のようなものだったとわかってしまったが、「現代のベートーベン」と、「本物のベートーベン」の違いが、とても興味深い。「現代のベートーベン」と言われた方は、実際には耳が聞こえるのに、聞こえないように装っていたと報じられている。放映されたドキュメンタリーの中では、作曲に悩んで壁に頭を打ちつけたり、床の上で悶絶するシーンもあった。

人々が求めている「耳の聞こえない天才作曲家」というイメージに、あまりにも合っていた。だから、人気が出た。

ある意味では、一世一代の演技だったとも言える。

一方、本物のベートーベンのほうは、イメージに合わせて自分の行動を決めたのではなかった。ベートーベンは、第一交響曲を作ったあたりから耳が聞こえにくくなった。しかし、耳が不自由であるということを、周囲には隠した。

というのも、当時のべートーベンは作曲だけでは生活できず、指揮や演奏などの活動を続ける必要があったからだ。耳が聞こえないことがわかると、これらの仕事もできなくなるのではないかと、ベートーベンは考えたのである。

その作品も、人々の期待に応えたものでは必ずしもなかった。耳が聞こえなくなることで、かえって、内側からわき出てくる音に集中できたのではないかと考える音楽学者もいる。ベートーベンの音楽は、世間の期待とは真逆の、革新性に満ちていた。

その象徴が、交響曲のクライマックスに合唱を持ってきてしまうという、当時としては破天荒な「第九」。ベートーベンは、人々の期待に応えようとしたのではなく、自分の内なる感性を追究したからこそ、100年も200年も残る音楽を創造できたのだ。

その時々の世間の期待に応えるのは、市場の中での適応戦略として合理性がある。企業が、商品やサービスを考える際に、市場の期待を無視するわけにはいかないだろう。

一方で、あまりにも市場に合わせると、革新性がなくなり、価値も結局永続しない。1つのジャンルを切り開く新しい商品は、むしろ、自分たちの内なるロジックを追いかけることでこそ生まれる。

ベートーベンは、世間の思惑など気にしないで自分の音楽を追究する、本物の天才であった。今の世の中で言えば、「ロックンロール」のスピリット。だからこそ、その作品は今日でも人々に愛され、聴き継がれている。

(茂木 健一郎 写真=AFLO)