鈴木明『セ・パ分裂 プロ野球を変えた男たち』(新潮文庫)
日本のプロ野球の史上最大の転換期となった2リーグ分裂の真相を、伝説の名選手・若林忠志を中心に描いたノンフィクション。このなかで、下山事件が思わぬ形でリーグ分裂に影を落としていたという話が出てくる。

写真拡大

戦後最大級の未解決事件である下山事件の発生から、明日で65年が経つ。これは1949年(昭和24)7月5日、国鉄総裁の下山定則が都内で行方不明となり、翌日未明になって常磐線の綾瀬駅付近の線路上で轢死体となって発見されたという事件だ。

その前月に公共企業体・日本国有鉄道として運輸省から独立したばかりだった国鉄では、9万5千人もの職員の削減が予定されており、労働組合と国鉄当局が激しく対立していた。それだけに、人員整理の責任者たる下山の死は国鉄内外に衝撃を与え、さまざまな憶測を呼んだ。その死因からして、自殺か他殺かで捜査当局・ジャーナリズム・法医学界は大きく二分されることになる。警視庁は翌年1月に自殺説を濃厚に臭わせる捜査最終報告書を発表したものの、明言は避けたまま早くも捜査本部を解散した。刑事事件としては15年後の1964年に時効が成立、真相はいまもって謎である。

■国鉄球団がセ・リーグに加盟した理由
下山事件の捜査が打ち切られたのとちょうど同月、1950年1月にはプロ野球の国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が誕生している。この球団設立には、対立の深まった国鉄内部の融和という目的もあったとされる。日本プロ野球はこの前年11月、セントラル・リーグとパシフィック・リーグに分裂、現在まで続く2リーグ制へと移行していた。国鉄スワローズはこのうちセ・リーグに加盟する。じつはその選択には、下山事件がちょっとした影響を与えていたようだ。

セ・パ分裂の発端は、毎日新聞社がプロ野球参入を決めたことにさかのぼる。読売ジャイアンツの創始者で日本プロ野球の初代コミッショナーの正力松太郎は、米メジャーリーグにならい2リーグ化を企図、そのうちの一つは読売新聞が仕切るとして、もう一つを大阪で勢力を持っていた毎日新聞を中心に組ませようと考えたのだ。

だが公職追放中の身にあった正力は、1949年5月にGHQの指摘でコミッショナーを辞任する。読売新聞社内からも「毎日新聞の加盟は、販売政策上好ましくない」と反対の声があがった。当時プロ野球を統括していた日本野球連盟では、読売・中日・大陽が毎日の参入に強く反対したため議論は紛糾、ついに1949年11月、連盟は分裂にいたる。セ・リーグはこのとき読売方についた球団によって組まれ、パ・リーグは毎日と行動をともにした阪急・大映・南海・東急・近鉄・西鉄によって組織された。

さて、先述のとおり、下山事件では下山総裁の死因をめぐり世論が自殺説と他殺説で二分された。新聞各社も、毎日新聞が自殺説を主張したのに対して、読売新聞は東大法医学教室の教授の「下山総裁は死後轢断である」との説を前面に押し立てた。死後轢断とは、遺体を線路上に置いて列車に轢かせたということになるから、あきらかに他殺である。さらに読売は8月には「読者からの投稿」という形で、「下山事件は、自殺か、他殺か」と題する大特集を組んで好評を博した。このあたりはいかにも、大衆の心理を読むのに機敏で、プロ野球やテレビ局の設立でも世に先んじた読売らしい。その紙面でも多数を占めたのは他殺説であった。一方、毎日新聞でも、販売店からは「他殺のほうが犯人探しで読者の関心を集められるので売りやすい」と不満の声があがったという(鈴木明(『セ・パ分裂 プロ野球を変えた男たち』)。

国鉄内部でも自殺説を否定する向きが圧倒的に多かった。鉄道好きが高じて国鉄に入ったほどの下山が、鉄道に迷惑をかけるような死に方をするはずがないと、職員の大半は考えたのだ。のちに国鉄技師長として東海道新幹線の計画を推進した島秀雄も、東大工学部の同期で知った仲である下山について、「あれだけ大量整理をやり自殺するとしたら遺書の一本くらい書くのがあの男の性格だ」と毎日新聞でコメントしている(高橋団吉『新幹線をつくった男 島秀雄物語』)。

それだけに、プロ野球参入を決めた国鉄が、自殺説に固執する毎日側につくはずもなかった。もっとも、堤哲『国鉄スワローズ1950-1964』には、のちにセ・リーグ会長を務める鈴木竜二が、国鉄にプロ野球参入の意志があると聞きつけ、何としてでもセ・リーグに加盟させようと猛プッシュしたことが書かれている。だとすれば、国鉄のパ・リーグ加盟は端からありえないことだったともいえる。

■手塚治虫も描いた下山事件
下山事件は、マンガなどフィクションでもたびたびとりあげられてきた。最近の作品でいえば、浦沢直樹の『BILLY BAT』(ストーリー共同制作・長崎尚志)があげられる。その作品の冒頭では、終戦直後の日本を訪れた日系アメリカ人のマンガ家、ケヴィン・ヤマガタが、ひょんなことからこの事件に巻きこまれる。

手塚治虫も、1961年から翌年にかけて雑誌連載された『アリと巨人』のなかで、下山事件(作中では上山事件)をとりあげている。その前年には作家の松本清張が『日本の黒い霧』で、同事件はGHQによる謀略だと主張し、話題を呼んでいた頃だ。『アリと巨人』には下山事件だけでなく、米軍基地の建設反対運動や社会党委員長・浅沼稲次郎の殺害事件など現実のできごとを彷彿とさせるモチーフが数多く登場する。驚くべきは、そんなハードな内容の作品が、中学生向け雑誌に連載されたという事実だ。

手塚はその後、1972〜73年に青年誌で連載された『奇子(あやこ)』でも下山事件(作中では霜川事件)をとりあげた。物語の前半、地方旧家の次男である天外仁朗は、GHQの秘密工作員として労働組合の活動家の殺害に関与する。仁朗はそこで、男の遺体を線路まで運び、轢死を装うのだが、それは国鉄総裁殺害の予行練習として行なわれたものだった。仁朗の事件への関与は物語の展開に密接にかかわっており、『アリと巨人』よりもさらに踏み込んだ形で下山事件を描いている。

下山事件は、その10日後の7月15日に三鷹駅で無人電車が暴走し死傷者が出た事件(三鷹事件)、さらに8月17日に福島県の東北本線松川駅付近で列車が転覆し、乗務員が死亡した事件(松川事件)とあわせて、連合軍の占領下で起きた国鉄三大事件と呼ばれる。ちょうどインフレ抑制のための徹底した財政引き締め策により、日本経済は不況に入り、中小企業の倒産があいついでいた時期だ。これと並行して、公務員や企業労働者の人員整理が進められ、職場では共産党員の主導のもと労働争議が激化する。そのなかで起こったこれら3つの事件では、共産党員の関与が疑われ、三鷹事件や松川事件では多くの党員が逮捕された(党員たちに対しては最終的に無罪判決が下る)。事実はどうあれ、事件によって共産党は急速に求心力を失っていくことになる。反共の立場をとる当時の首相・吉田茂にとっても、その後ろ盾となるGHQにとってもそれは歓迎すべきことであっただろう。

このような経緯から、下山事件はGHQや吉田政権のよる謀略だとする説が、松本清張はじめ多くの作家やジャーナリスト、研究者によってことあるごとに発表されてきた。それらが手塚治虫や浦沢直樹に影響を与えていることは間違いない。一方で、数は少ないものの、謀略説の否定論も存在する。次回はそれら作品をいくつか紹介してみたい。
(近藤正高)