『絶倫の人 小説H・G・ウェルズ』デイヴィッド・ロッジ/高儀進 訳/白水社
同じ1935年生まれの作者と訳者による、70代半ばを過ぎての執筆・翻訳(原著2011年・訳書2013年刊行)という、絶倫ぶりも見逃せない。

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なんでこの人が「絶倫の人」なのだろう?

イギリスの作家、デイヴィッド・ロッジによる伝記小説『絶倫の人 小説H・G・ウェルズ』は、19〜20世紀に活躍し、『タイムマシン』や『宇宙戦争』などの作品で知られる文豪の、知られざる絶倫な人生にスポットを当てる。

とはいえ、無名時代の性にまつわるエピソードは、絶倫という割に意外とノーマル。
性の目覚めが父親の読む雑誌に描かれていた半裸の女神の絵であるとか、親戚の女の子のスカートの中に触れようとして平手打ちを食らったとか、初夜がうまくいかなかったとか。
H・G・ウェルズも、自分たちと似たようなことを経験してきたのだなと、親近感さえ湧いてくる。
なら、何が世間一般の男と「絶倫の人」を分かつのかといえば、セックスに対する異常なまでのこだわりだ。

初夜がうまくいかなかった原因は、セックスに対する考え方の相違にある。妻のイザベルは、セックスを〈創造主が人類の繁殖のために定めた一種の公認の攻撃〉と信じていた。そんな彼女の古臭い道徳観が嫌になったウェルズ。
彼にとって理想のセックスとは、〈乗り気な相手との、恥じらいもなく、罪の意識もなく、何らの義務もない、開放感を得る、気晴らしのセックス〉だった。
それを実現するために、妥協はしない。
イザベルとは離婚、教員時代の教え子で、〈自由恋愛〉を信じ〈自由思想家〉であるキャサリンと再婚する。ところが、キャサリンとのセックスにも喜びを感じることはできなかった。
ここでも妥協はしない。
離婚はしないまでも、理想の相手を見つけるため、再び別の女性と関係を持つようになる。

そんなすぐに相手が見つかるもの?と思うかもしれない。
決して、ハンサムではない。背も低い。家柄が良いということもない。でも、モテたのだ。
作家として大成功を収めた自信は、ウェルズを魅力的な男に変えた。何よりその名声は、女性を惹きつけずにはいられなかった。
生涯で経験人数は、優に100人を超えたというから、確かに絶倫。

金も地位も名誉もある上に、ダメ押しのハーレム状態。こんな幸せな男、そうはいない。
それなのに、晩年のウェルズは自問自答する。
自分の人生は成功なのか、失敗なのか、と。

歯車が狂いだしたのは、政治に手を出すようになってからだ。
作家としての成功に飽き足らないウェルズは、社会主義団体「フェビアン協会」に入会。公正な富の分配がされ、貧困や犯罪の存在しない社会の建設を目指す。それだけならよかったのだが…。
ウェルズの理想とする社会像には、自由恋愛も当然含まれていた。有言実行とばかり、自分に興味を持ち、考えに共鳴してくれる若い女性たちと関係を持ってしまう。

ところが、相手の家族からすれば、自由恋愛なんて認められるものではない。娘を疵物にされたと怒り、トラブルが起きる。
金銭的なリスクもある。妻と二人の息子の生活費に加えて、恋人との交際費も必要となる。二つの家庭を切り盛りしているようなものだ。
費用を賄うには小説を書くしかないが、書いた作品がまた新たなトラブルを生む。
作品の出来とは別に、書かれている恋愛観が不道徳だとマスコミに叩かれる。モデルにした恋人が、事実を暴露されたと怒り出すこともあった。

その矛盾だらけの人生を追っていくと、文豪が自業自得の滑稽な人にもみえてくる。
でも、果たしてそれが実像なのだろうか?少なくとも、小説へのバッシングは、お門違いではないのか?
作家として読者として、天才として凡人として、モテとして非モテとして、男として女としてなど、どの立場から読むかでウェルズの印象が全く違う。対象が一つのイメージに収斂されず多様な解釈の可能なのが、伝記でありながら小説でもある本書のおもしろいところだ。

たとえば、才能ある作家や政治家が、ウェルズと同じ状況に置かれたらと想像してみる。本業さえも集中できない状況が嫌になって、途中で人生を投げ出してしまうか、潰れてしまうかだと思う。

ところが、ウェルズは違う。面倒なトラブルが起きるたびに、危機を切り抜ける。
破産することもスキャンダルで作家生命を絶たれることもなく、79歳まで生きるなんて誰にでもできることではない。滑稽な人どころか、超人としか思えない。
後から振り返り、幸運だし成功だったと考えて間違いのない人生だ。

なのに、ウェルズは死を間際にして、なお迷う。
頭の中で、自身の過去について尋問し批判する声が聞こえてきて、日夜それに反論する。
答えのない議論を続ける男は、生きることに疲れた老人なのか?
それとも、生涯満足することのできない、欲深き「絶倫の人」なのか?

(藤井 勉)