3歳で織田家当主となった信長の孫・三法師。なぜ「名代」は置かれなかったのか。秀吉の勢力拡大のきっかけとなった「清須会議」の背景とは…。濱田浩一郎が『豊臣兄弟!』を解説
天下人・豊臣秀吉…ではなく、その弟・秀長が主人公!これまでになかった視点からダイナミックに描く大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。兄を支え続けた“もう一人の豊臣”にスポットが当たることで映し出される新たな戦国の世界が話題です。そこで歴史家で作家・評論家の濱田浩一郎さんに、ドラマをもっと楽しむための”ツボ”を解説していただきました。
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圧倒的な地位を手に入れた秀吉
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第30回は「清須会議」。
天正10年(1582)6月、織田信長を本能寺で討ち取った明智光秀は羽柴秀吉方の軍勢の前に敗れ去ります。
光秀を討ったことにより、秀吉は信長に仕えていた重臣らの中でも「圧倒的な地位」を占めることになりました。
とは言え、秀吉は未だ織田家の重臣であって、同家を超越する立場をすぐに得た訳ではありません。
信長の嫡男・信忠は京都で光秀により討たれましたが、信長の次男・信雄、3男の信孝は健在だったからです。
「清須城」に有力家老が参集
光秀を討った秀吉は、清須城に進軍します。

『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(著:濱田浩一郎/内外出版社)
清須城には亡くなった信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)が避難していたからです(三法師は元来、岐阜城におりました)。
清須城には織田家の有力家老が参集します。
柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興そして羽柴秀吉です。
わずか3歳の三法師が織田家の当主に
集まった4人の家老たちは、今後の織田家の在り方や領国の配分などについて話し合いました。
これが史上有名な清須会議(6月27日)です。
この会議によって織田家の当主は三法師が継承することになります。
しかし三法師は未だ3歳。本来ならば「名代」を置くべきです。

(『豊臣兄弟!』/(c)NHK)
名代は三法師の叔父・織田信雄か織田信孝のどちらかがなるのが自然ですが、両者は名代の立場を巡り抗争を深める恐れがありました。
「4家老の合議」により政権を運営していくことに
それを懸念した織田家の4家老は名代を置かず、三法師を当主として4家老の合議により政権を運営していくことに決します。
いわゆる「集団指導体制」が採られたのです。
領国の配分により、秀吉は山城国・丹波国・河内国東部を得て、一層の勢力伸長に成功します(柴田勝家は近江国長浜領、丹羽長秀は近江国高島郡・志賀郡、池田恒興は摂津国大坂周辺を取得)。
しかし前述したように、秀吉は天下人でも何でもなく、未だ織田家の家老の1人に過ぎませんでした。
(主要参考文献一覧)
・黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社、2025年)
・柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下統一』(NHK出版、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
