56歳で早期退職して始めたボランティア活動に「絶望」し、半年で辞めた男性。「自分は価値のない人間と思った」理由をたずねると…【2025年下半期BEST】
2025年下半期(7月〜12月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2025年9月10日)********内閣府の「令和7年版高齢社会白書」によると、令和6年の労働力人口6,957万人のうち、65歳以上の人の割合は13.6%となっています。そうした状況について、近畿大学教授の奥田祥子先生は、「日本では急速な少子高齢化の進行を背景に、60歳を過ぎても働き続けることが可能な環境整備が進んでいる」と話します。今回は、そんな奥田先生の著書『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』から一部を抜粋し、ご紹介します。
【書影】思い悩む男性から「均等法第一世代」の女性まで。奥田祥子『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』
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退職後ボランティアで「自分をなくした」
2023年、年の瀬の都心。5、6人収容可能な広い貸会議室に取材対象者と筆者の2人。林田剛さん(仮名、57歳)が沈黙してから10分近くが過ぎようとしていた。インタビューを開始した時には青白く、生気が失せていた顔は、いつしか頬に赤みが差し、目が充血し始めている。発話の時間が迫っている。そう感じたのとほぼ同時に、林田さんが重い口を開いた。
「自分を、なく、した……」
56歳で早期退職して始めた地域でのボランティア活動を、わずか半年で辞めた理由を尋ねた答えの最初のフレーズがこれ、だった。
蚊の鳴くような声、も普段からしゃべり慣れていない人にはよくあることなのかもしれない。ただ彼の場合は、経営企画部や広報部に長く在籍し、株主やマスメディア関係者など幅広く社外に向け、情報を発信してきたIR(インベスター・リレーションズ)やPR(パブリック・リレーションズ)のプロである。それまで長年の継続取材で彼のこれほど弱々しい声を聞いたことがなく、普段は根気強く発話を待つところを思わず質問した。
「えっ、今、何とおっしゃいましたか?」
「……つまり、そのー……第二の人生、この時こそ、長年の夢であった、社会貢献、人の役に立つ活動を、周囲の評価や社内ポジション、そして組織や人との利害関係なく、思う存分できる。そう、信じていたのですが……。結局は、自分が価値のない人間に思えて自分を見失ってしまった。絶望した、のです……。なんとも情けない、こと、です……」
林田さんは嗚咽していた。再び乾いた空気が流れ始める。事の経緯と彼の心情を知るためにも、ここでただ待っているわけにはいかない。つらい質問であることは承知のうえで尋ねた。
「どうして、自分は価値のない人間、と思われたのですか?」
「だって、無報酬ですからね」
また沈黙するかと思ったが、呆気に取られるほど早く、素っ気ない答えだった。
「いくら人のために、と考えて頑張っても、無償で活動する、つまり活動したことの対価が支払われない、ということは、活動成果が誰からも評価されていない、ということじゃないですか。もちろん、ほかにもいろいろな壁というか、問題はありましたけれど……やはり無報酬というのが、一番大きかったと思います」
いつの間にか、元の淡々とした表情に戻っていた。
在職中から志高く、CSR事業の推進に力を注いだ林田さんが、退職後のボランティア活動になぜ、「絶望」してしまったのか。この約20年間の軌跡をたどり、探ってみたい。
「CSR担当のチャンスを生かしたい」
林田さんとは、大手企業を中心にCSRに関する動きが活発化しだし、「日本のCSR経営元年」とも呼ばれる2003年に出会った。当時37歳で、中小メーカーの経営企画部で課長補佐を務め、CSRを担当して数か月という時期だった。
大手企業が経営トップ直結の専門組織などを設置して担当役員を任命し、CSR経営に乗り出し始めたのに対し、林田さんが勤務する会社では専門部署を設けることなく、経営企画部内に「CSR担当」として、彼と入社年次が5年下の30代前半の部下の2人だけ。役員会に諮るためのCSRの活動内容の選定にあたっていた。
「これからの時代、CSR経営は企業の存続と発展のために欠かせない。そう自信を持って言えます。日本におけるCSRの必要性が語られる時によく、高度経済成長期の公害問題を筆頭に、1960年代から1990年代にかけて多発した企業の不祥事、さらに2000年に起こった雪印集団食中毒事件、同じ年から2004年までの三菱自動車のリコール隠しなどが挙げられます。しかし、そうしたコンプライアンス(法令遵守)はもとより、そもそも企業に社会的責任が求められるのは必然的なことなのです。日本でも一定の歴史がありながら、本格的に企業が動いてこなかったのは怠慢としか言いようがありませんね」
インタビューの前に基本的な知識はある程度得てきたつもりだったが、林田さんの説明はわかりやすく、まるで大学の講義を受けているよう。CSR経営の重要性の解説だけで1時間強を費やしたこと、その時間があっという間に感じられたことが当時の取材ノートに記されている。が、取材記録を確認するまでもなく、当時の情景を昨日のことのように思い出す。
「まずはコンプライアンスと環境対応、そして社会貢献。この3つを重要な柱として活動内容に位置づけるべく取り組んでいますが、いずれはヨーロッパのCSR活動のように、地域や顧客、NGOまでも巻き込んで社会課題に取り組んでいかなければなりません」
CSRを担当するまで、経営企画部と広報部を行き来し、しゃべり慣れているようだったが、それも社内で活躍するために努力を重ねて修得した技だった。
「実は私はもともと商品企画が希望だったのですが……新人の頃に配属された時に能力を発揮できずに、バックオフィス部門に異動させられました。それだけに人一倍努力して、情報収集・伝達力やプレゼン、話術を磨いてきたつもりです。だから、社内でのCSR活動開始の情報をいち早くキャッチして、自ら志願して担当になったこのチャンスを、何としても生かしたいと思っているのです」
かしこまった話し方は変わらないものの、やや気持ちが昂ったのか、自身の志を語る頬に少し赤みが差したのを覚えている。
成果出せず「時機を逸した」
CSR担当になってから1年後、林田さんは38歳で経営企画部の課長に昇進した。CSRの担当は依然として彼と部下の2人だけ。課長ポストに就いたことで、CSRだけに専従することはできなくなり、経営陣のビジョンを具現化するための企画立案業務も並行して行っていた。
なおいっそう多忙になるなかでも、CSR担当になった初年度に取締役会で決議されたコンプライアンスと環境対応、社会貢献の3つの取り組みについて、実施計画づくりに邁進した。しかし、課長職に就いてから2年が過ぎても、なかなか思ったように計画づくりは進まなかった。一度は賛同した経営陣が一部の活動に難色を示したことが主な理由だった。
「企業イメージ・ブランド価値の向上やステークホルダーはもとより、社会からの信頼獲得や有能な人材の確保など、経営陣もCSRがもたらすメリットは理解しているようなのですが……コストがかかることが大きな壁となっていまして……。コンプライアンスと環境対応については何とかメドはついたんですが、社会貢献については全く進んでいません」
2006年、40歳の林田さんはそう話すと、眉間にシワを寄せた。社内でのCSRの推進についてネガティブな見方をするようになったのは、この頃からだったと記憶している。
そうして11年、45歳の時に元所属した広報部に異動して部次長に昇進すると同時に、CSRの担当から外れることになるのだ。その人事が自ら志願したことだったことを知るのは、部次長職に就いてから2年後のこと。「CSRが軌道に乗るのを確かめることなく離れるのは無念でしたが、経営陣が乗り気でない取り組みに力を注いでいては、その……昇進に響くので……」と、目線を合わせないようにうつむき加減で胸の内を明かした。
社会もCSRに関心を寄せるようになる
だがその一方で、企業ばかりか社会もCSRに関心を寄せるようになる。林田さんが広報部に移る前年の10年にISO(国際標準化機構)が「ISO26000」を発行し、CSR活動で尊重すべき「CSRの7原則」と「7つの中核主題*1」が設定されたこと。さらに15年に開催された国連総会で、SDGs(持続可能な開発目標*2)が採択されたことなどが背景にあったと考えられる。
林田さんの会社では16年から、工場のある地域で定期的に清掃活動を行うなど、社会貢献の活動に踏み切る。その陣頭指揮を執ったのが、かつて林田さんの下でCSRを担当した、経営企画部の部次長だった。
「成果を出せなかった私はタイミングが悪かったというか……時機を逸したようですね」
16年、広報部の部長を務めていた50歳の林田さんは、忸怩(じくじ)たる思いを語った。この時の表情がどこか吹っ切れたように見えたのは、すでに己の身の振り方を決めていたからかもしれない。
*1 ISO26000の「CSRの7原則」は説明責任、透明性、倫理的な行動、ステークホルダーの利害の尊重、法の支配の尊重、国際行動規範の尊重、人権の尊重。「7つの中核主題」は組織統治、人権、労働慣行、環境、公正な事業慣行、消費者課題、コミュニティへの参画及びコミュニティの発展。
*2「誰一人取り残さない」持続可能で多様性と包摂性のある社会の実現のため、2030年までの達成を目指す国際的な開発目標。貧困や教育、ジェンダー平等、環境問題など、17のゴールと具体的な169のターゲットなどが設定されている。CSRは活動の対象がステークホルダーであるのに対し、SDGsは地球上のすべての事柄である点などが異なる。
「いち市民としてなら」実現できるのではないか
2022年、役職定年からちょうど1年が過ぎた時、林田さんは56歳で会社を辞めた。退職金が割り増しされる早期退職優遇制度を利用したが、他界した両親の遺産や株式投資などでもともと経済的には余裕があったようだ。無論、そうした経済面の状況をはるかに超える退職理由があったことは言うまでもない。
退職を2か月後に控えた時、林田さんはいつになく明るい表情でこう説明した。
「会社員として叶えられなかった社会貢献の活動を、地域ボランティアとして始めたいのです。CSR経営の重要性を上司を通じて経営陣に最初に進言したのは私ですし、CSR担当として経営企画部で8年間、自分としては精一杯、頑張ったつもりです。でも……世の中の潮流やタイミングのせいにしてはいけないのですが……実際には時機を逸したのは不運でした。無念、だったとしか言いようがありません。だから……企業イメージの向上やコンプライアンスなど会社の営利活動とは全く関係のない、純粋な社会貢献に取り組みたいと考えたのです。社会貢献は、会社のCSRでも最も手こずった分野でしたし……。いち市民としてなら実現できるのではないかと。これからの第二の人生、今度こそ、地域で『人の役に立つ』成果を実感できると大いに期待しています」
彼にしては珍しく、所々言いよどんだが、それは第二の人生の目標を高らかに宣言するために慎重に言葉を選ぶ間合いだったのではないかと思う。
ただ「地域ボランティア」としての具体的な活動内容は、この時点ではまだ決まっていないようだった。
ボランティアを安易に考えていた
林田さんは退職1か月後から、地域の小学校の見守り活動のボランティアを始めた。地元の市役所の掲示板で募集を見つけたのがきっかけだった。交通量の多い交差点などに立って小学生が安全に登下校できるよう見守る活動を始め、見通しの悪い道や人通りの少ない通学路を通る小学生の登下校の付き添い、通学路の危険箇所などを把握して学校や行政に報告する巡回・点検がメインの活動だった。
地域の小学生を見守るボランティア活動を始めてから3か月ほどの間は、「小学生が喜んでくれ、『おじちゃん』と話しかけてくれるのがうれしい」などと意欲的に活動に携わっている様子が伝わってきた。だが、活動開始から半年を経たあたりから、取材の申し込みに対して「疲れているのでまたの機会に」などと応じてくれなくなり、時を経ずして音信不通になってしまう。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)
ようやく連絡がついた2023年の年末、林田さんはすでに2か月前にボランティア活動から退いていた。そうして、「自分は価値のない人間」「絶望」という衝撃的な言葉で自らの心情を表す冒頭の場面を迎えるのである。
なぜ自分は価値のない人間と思ったのか、という問いに「無報酬」であること、「活動成果が誰からも評価されない」ことを挙げた林田さんに、わずか1年前、地域ボランティア活動に踏み出す熱い思いを語った意気揚々とした面影は鳴りを潜めていた。
改めて思いを尋ねると……
24年春、改めて思いを尋ねた。
「過去の肩書など通用しないし、長年地域に関わってこなかったハンデは百も承知していたつもりでしたが……ご近所さんであるボランティア同士の人間関係が煩わしかったのと、たまたま、登下校を見守る小学生の中に広報部時代に面識のあったマスコミ関係の人のお子さんがいて……家族の食卓で『部長から、見守りおじさんに転身』などと揶揄されているのではないかと想像して後ろめたい気持ちにもなって……。活動の対価が支払われない無償労働にやるせなさを感じたのも、そもそもボランティア活動への敬意と理解が足りなかったのだと思います。地域で人の役に立つ活動を安易に考え、動機も不純だったんでしょうね。会社で自分の手でCSR活動を軌道に乗せられなかった無念を晴らす面もありましたからね……」
ボランティア活動も仕事もしていない。これからどう過ごしていくつもりなのか。
「今年58歳の誕生日を迎えますが、会社の同期や大学の同級生たちはみんな管理職を退いても平社員として働いていますし、今は定年を過ぎても働き続ける時代ですからね……。しばらく休んで考えてから、有償労働に就くのか、ボランティアを再開するのか、何らかのかたちで、社会貢献につながる活動に関わりたいとは思っています」
前向きな時もつらい時も、ピンと張り詰めた空気が漂うことが多かったが、この時は肩の力が抜けたように、終始和やかな雰囲気だった。
※本稿は、『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』(光文社)の一部を再編集したものです。
