織田信長像(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

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現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。本作の主人公は、天下人・豊臣秀吉の弟である豊臣秀長です。歴史の教科書にも載っていない彼は、いったいどのような人物なのでしょうか?今回は、書籍『図解 豊臣秀長』をもとに、歴史研究者で東大史料編纂所教授の本郷和人先生に解説をしていただきました。

【書影】2026年大河ドラマで話題「豊臣兄弟」のことがみるみるわかる!監修:本郷和人『図解 豊臣秀長』

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秀長はいつ信長に仕官したのか?

秀長が信頼できる史料の記録の上でその存在がはっきりしてくるのは、織田信長の伝記『信長公記』の天正2(1574)年の記述です。

それ以前の事績については、前野家に伝わる古文書『武功夜話』など信憑性が低いとされる史料や『太閤記』など江戸時代以降に描かれた読み物による部分が多いので、これらを史実と見るかの判断には注意が必要です。

秀吉は家を飛び出して各地を流浪した末、『太閤素生記』によれば三河(現在の愛知県東部)にある頭陀寺城で松下之綱という武士に約3年仕えていましたが、弘治元(1555)年には尾張(現在の愛知県西部)に帰ったといいます。

この頃の秀吉は、木曽川沿いに勢力を張っていた土豪集団である川並衆に属していた蜂須賀小六(正勝)の屋敷に出入りしており、織田家に仕えていた武士・生駒家の屋敷にも小六に従って出入りしていたようです。

信長の側室の女性・吉乃に気に入られ……

この生駒家というのは、信長の側室の女性(『武功夜話』によれば、吉乃という名前だったといいます)の実家です。

信長は美濃(現在の岐阜県)の大名である斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶、あるいは胡蝶ともいう)を正室に迎えていましたが、濃姫に関する史料は乏しく、信長と結婚してからの彼女がその後どうなったのかははっきりしていません。

信長と濃姫との間に子どもは生まれなかったようですが、吉乃は信長との間に長男の信忠と次男の信雄を生んだことで、濃姫に代わって信長の継室のようなポジションにおさまっています(ただし、信忠の母親については、かろうじて「信雄の母とされる吉乃の可能性がある」として名前が挙がっているだけで、詳細は不明です)。

『武功夜話』によれば、秀吉はこの吉乃に気に入られ、吉乃の口利きで信長に仕官したといいます。

若い時分からしっかりした人物だった

永禄元(1558)年に、吉乃の兄である生駒家長に宛てて出したという秀吉と秀長の手紙が生駒家に残っています。これらは後世の写しのようですが、家長が取り立てた年貢を秀吉と秀長のもとへ届けたことへの返書で、「一貫文不足していた」という内容です。

この頃、まだ信長は尾張一国を統一しておらず、同じ織田家の一族で尾張の北四郡を支配する織田伊勢守家と激しい戦いを繰り広げていました。信長は同年に起こった伊勢守家との戦い(浮野の戦い)で勝利し、伊勢守家から奪った支配地を豊臣兄弟ほか部下たちに分配していたので、この知行地から納められた年貢のことをいっています。


織田信長像(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

なお、秀長はこの手紙で「年貢は公用なのだから、鐚(びた)銭(粗悪な銭貨)ではなく正銭(当時の公用通貨である永楽通宝)で納めてほしい」と注文をつけています。秀長は若い時分からしっかりした人物だったことがうかがえます。

つまり、兄・秀吉に説得されて農民から武士に転身した秀長は、浮野の戦いが起こった永禄元年までには、正式に秀吉の部下として信長に仕官していたことになります。

※本稿は、『図解 豊臣秀長』(興陽館)の一部を再編集したものです。