【追悼・長谷川和彦監督】たった2本で“伝説”となった映画人 愛すべき罪な男の軌跡を辿る
「親を殺す」、そして「東京を原爆で吹き飛ばす」。このふたつの暗く危険な願望を、とてつもなく共感度の高いエンターテインメント作品として描き、映画監督・長谷川和彦は伝説的存在となった。そして彼は『青春の殺人者』(1976年)と『太陽を盗んだ男』(1979年)という、たった2本の長編監督作品を残して世を去り、なおさら唯一無二の映画人として記憶されることになった。2026年1月31日没、享年80。
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もし長谷川監督の長編第3作が実現していたら、一体どんな題材に取り組んだのか。今度こそ日本政府を転覆させるようなテーマに挑んで大ヒットを飛ばしたかもしれないし、そんな危惧を覚えた当局がしつこく監督復帰を阻止し続けたのかもしれない……という妄想もかきたてるほど、長谷川和彦が「監督なのに監督できない時期」は長かった。
にもかかわらず、多くの映画ファンが彼のカリスマ性に触れ、豪放磊落かつ憎めない本人のキャラクターに親しんでいた。あんなに長いこと不遇の時期を過ごしていたはずなのに、世をすねて隠遁したひねくれ者でも、世間から忘れ去られた孤独な鬼才でもなく、半世紀近くも新作が待ち望まれ続ける人気監督であり続けた。そんな存在は世界を見渡してもほかにいない。
数少ない監督作には確かに危うい香りが立ち込めていたが、かといって別に危険思想の持ち主だったわけではない。むしろ「親を消し去りたい」「東京を吹き飛ばしたい」という願望は、ごく普通の反抗心や鬱屈の類いだろう。その一線を越えてしまうところに、映画ならではの衝撃とパンチ力があり、その過激な行動や思想の痛ましい「代償」を、長谷川監督はかぎりない優しさと悲しみをもって描いた。とびきり情の深いヒューマニストであり、モラリストだったと思う。
たとえば『青春の殺人者』では、血なまぐさい犯行後に家族3人が幸せだった頃の記憶を浜辺で思い出して涙する青年・順(水谷豊)の姿にもらい泣き必至だし、『太陽を盗んだ男』では、放射性物質を舐めてしまった野良猫ニャロメの死をなす術なく目撃する城戸先生(沢田研二)の痛みに胸を締めつけられる。どちらの作品においても、反社会的衝動と優しさが共存し、豪胆に見えて繊細な作風が貫かれ、どんなにハードな題材でも娯楽性を忘れないストーリーテラーとしての圧倒的普遍性が多くのファンを惹きつけた。まさしく、天才の所業だ。
それなのに、なぜ新作を撮れないのか。あまりに上出来すぎる第1作と第2作のプレッシャーで、身動きが取れなくなっていたのか。周囲の期待が大きすぎて、絶対に失敗できないと思い込んでしまったのか。ハッキリした理由の有無はわからないが、長谷川監督自身がこうした状況を望んでいなかったことはハッキリしている。彼は『太陽を盗んだ男』以降も次回作の企画を練り続け、なかにはオムニバス映画『危ない話』(1989年)のオリジナルエピソード「禁煙法時代」のように、実景撮り初日まで漕ぎ着けたケースもある(それでも結局、プロデューサーに説得されて撮影を断念)。長年のブランクと度重なる挫折が、過剰な用心深さと諦めのよさのようなものを育んでしまったのかもしれない。
最も有名かつ残念な未映画化企画のひとつが、大友克洋原作、中森明菜主演の『童夢』であろう。企画が立ち上がった1980年代前半の特撮技術で、果たしてどれだけのクオリティが実現できたのかわからないが、それでもマンモス団地を舞台にした超能力バトルを長谷川演出で観てみたかった思いは今でもある(のちに大友克洋自身の監督による実写化企画も動いたが、これもパイロットフィルムを作ったところで現状ストップ中)。
一方、長谷川監督が長年こだわり続けた大作企画『連合赤軍』のプロットは、一時期、大友克洋の短編『Fire-Ball』(1979年発表)に似ていたこともあった。漫画『アキラ』のプロトタイプとしても有名な短編だが、もしかしたら『連合赤軍』は大友テイスト強めの作品として結実していたかもしれない。
1982年には映画作家中心の制作会社ディレクターズ・カンパニーを立ち上げ、代表として若手監督たちの活躍を積極的に後押しした(このへんにも、元東大フットボール部キャプテンならではの体育会系的性格がうかがえる)。相米慎二、池田敏春、根岸吉太郎といった日活ロマンポルノ時代からの仲間に加え、ピンク映画から一般映画に進出した高橋伴明、自主映画出身の石井聰亙や大森一樹、自主→ピンク→一般映画という道筋を辿った井筒和幸、同じく自主映画出身で『太陽を盗んだ男』では制作進行をつとめた黒沢清にも長編監督の機会を与えた。
長谷川和彦が製作に名を連ねた『逆噴射家族』(1984年)をはじめ、1984年『人魚伝説』、1985年『台風クラブ』『ドレミファ娘の血は騒ぐ』、1986年『犬死にせしもの』、1987年『永遠の1/2』『光る女』、1988年『DOOR』『死霊の罠』、1990年『東京上空いらっしゃいませ』といった主なタイトルを挙げるだけで、ディレカンの功績の大きさは伝わるだろう。ただし『逆噴射家族』の準備中、長谷川和彦は1981年12月に起こした自動車事故により交通刑務所に6カ月服役することになり、プロデューサーを高橋伴明に交代。その送別会のようすは作家の阿佐田哲也(色川武大)が『無芸大食大睡眠』(集英社文庫)所収のコラム「ゴジの断髪式」に書いており、また長谷川本人の獄中手記「市原交通刑務所 163日間体験記」も雑誌『月刊プレイボーイ』に掲載された。
いきなり不穏なスタートを切ったディレカンだが、その後も残念ながら大きな興行的成功には恵まれず、大作『東方見聞録』(1992年)撮影中に死亡事故が起きるという不運も重なり、1992年に倒産。結局、先述の『危ない話』の一件も含め、長谷川和彦はとうとうディレカン時代に自身の監督作を発表することもできなかった。とはいえ、同社では企業VPなどを手がけていたので、決して演出業から完全引退したわけではなかったという。
映画人として生き残ってくれるなら、どんなポジションでもいい。長年のファンからも、最近その魅力に触れた観客からもそんなふうに思われるような、特異かつ数奇な人生を送った人だった。テレンス・マリックやヴィクトル・エリセだって長大なブランクを吹き飛ばしたのだから、1本ぐらい無理やり撮るべきだったのではないかと思わなくもない。だが、ついに願いは叶わなかった……。『青春の殺人者』『太陽を盗んだ男』の2作は、今後も彼の神格化を高めていくのだろうと思うと、憎らしくも思えてくる。だが、あんな素晴らしい作品を憎めるはずもない。どこまでも愛すべき罪な存在として、彼は逝った。(文=岡本敦史)
