生まれた直後に生死の境をさまよい、緊急手術で命を取り留めたという認定NPO法人日本こども支援協会の岩朝しのぶさん。33歳から2年ほど不妊治療をした経験から、「多くの女性に早い段階で不妊治療の正しい知識が必要」と話します。(全4回中の2回)

【写真】不妊治療を経て里親になる決意をした当時の岩朝しのぶさんとご主人 ほか(全14枚)

度重なる手術で「子どもは産めない」と告知

岩朝しのぶさん

── 岩朝さんが不妊治療を始めるまでの経緯を教えてください。

岩朝さん:私はいろいろな臓器が不完全な状態で生まれたため、出産直後に緊急手術を受けて、臓器を形成し直す手術をこれまで17回受けてきました。そのなかでいろいろな経験を重ね、夫と出会い結婚をしました。何度も手術をしたことで、中学生のころに医師から「子どもは産めない」と告知されていたので、そのことは夫にも結婚前に伝えていました。

ただ、生まれてすぐ受けた緊急手術では、担当医が私のために子宮を残す難しい手術をしてくれていたんです。そのことは常に頭にありました。30歳を過ぎたころ、不妊治療の専門クリニックができ始めて。「可能性があるか、聞くだけ聞いてみよう」と診察を受けたんです。そうしたら、医師から「卵子があるから、妊娠も出産もできますよ」と言われて。驚きつつも、素直に嬉しかったですね。「私が妊娠できるほど医学が進歩したんだ、すごい!」って。「じゃあトライしてみよう」と、33歳のときに不妊治療を始めました。

── 不妊治療を始めてからはいかがでしたか?

岩朝さん:何回か治療を重ねたのですが、結果が出ない状況が続いて落ち込みました。それまで、小学4年生まで長期入院していたものの、退院後は勉強や受験も頑張れば成果が出るんだという成功体験があったんです。でも、不妊治療では頑張っているのに結果が出ない。そんなことは初めてでした。「35歳くらいには妊娠するはず」などと考えていましたが、何回繰り返してもダメで。

その後、体調を崩したこともあってワンクールお休みしたのち、体外受精のなかでも妊娠率が高いと聞いていた「胚盤胞移植」という、受精卵を培養してから子宮に着床させる方法に挑戦しました。でも金銭的にも負担が大きくて…。「これがダメだったら別の選択肢も考えよう」と覚悟を決めて臨んだんです。ところが、妊娠判定を待っている間に突然39度を超える高熱が出て、緊急入院。卵管のう腫という病気でした。その入院先で、医師から怒られてしまって…。

「この体で妊娠なんて…なんて無責任な」と叱られ

── 高熱を出して苦しんでいるのに…なぜ怒られてしまったのですか?

岩朝さん:「いろいろな内臓を形成し直す手術を16回繰り返している体で、10か月間も赤ちゃんを育てることはできない。もし出産するなら、早産を想定した帝王切開になる」と。度重なる手術で何か所も癒着しているから、帝王切開ができる産婦人科はおそらく見つからないだろうとも言われました。そのドクターは「その不妊クリニックはなんて無責任なんだ」と怒っていましたね。

── それはおつらかったでしょう…。その後どうされたのですか?

岩朝さん:「どうしても妊娠出産を希望するなら、帝王切開の手術ができる産婦人科を見つけたほうがいい」と言われて、いろんな産婦人科に問い合わせました。でも、ドクターが言う通り、1軒も見つからなくて。ある病院からは「死にますよ」と言われました。それを聞いた夫に「きみと一緒にいたくて結婚したのに、子どもを産むことできみを失うなんて本末転倒だ」と言われ、たしかにそうだと納得したんです。でも、私は本当に子どもが大好きで…子どもがいない人生なんて考えられませんでした。

ただ、不妊治療をしている間に、たまたま「里親のボランティア募集」という記事を見つけて。中学生のときに友達が「里親のところに行くから」と引っ越していったことをふと思い出し、「もし産めなくても里親という選択があるんだ」と、少し気持ちが前向きになったんです。

2016年、岩朝さんが代表理事を務める里親支援のNPO法人のメンバーで。毎年10月に「全国一斉里親制度啓発キャンペーン」を実施している

その後、初めて里親制度の啓発ボランティアに参加したときに、親と暮らせない子どもたちの現状を知りました。いまや保護者がいない子どもや虐待に遭っている子どもが約4万2000人。その約8割が児童福祉施設で暮らしています。約20年前は、社会的養護が約3万6000人、里親委託率は11%程度でしたが、その現状を知った当時は、とにかくショックで。それ以来ずっと、自分の中でモヤモヤしていました。

父と継父の死で「血の繋がりは関係ない」と確信して

── その説明会がきっかけで、不妊治療を続けることにさらに迷いが生じたのですね。

岩朝さん:はい。そういった現実を突きつけられて、不妊治療をやめるかどうか、自問自答しました。「私は産みたいのか」、それとも「育てたい」のか、どっちなのかって。そのときに思い浮かんだのが、実父と継父のことでした。

母はシングルマザーとして私を育ててくれ、50代で再婚したのですが、ある日、その再婚相手、つまり継父が病気で危篤状態になったんです。継父は「父親ってこんな存在なんだ」と胸が温かくなるような背中を見せてくれた、大切な存在でした。その継父がいつ亡くなるかわからない状況のときに、実の父の危篤を知らせる電話があったんです。その奥さまからは「お父さんが会いたがっている」と言われました。でも、私にとって実の父は、血はつながっていても、ほとんど交流も思い出もない人でした。結局、私は何年も一緒に暮らして、私に愛情を注いでくれた今の父と最期を一緒に過ごすことを選びました。実の父は、育ての父よりも3日早く他界したのですが、後悔はありませんでした。

このことがあって「親子に血縁は関係ない」と実感できたし、たとえ子どもと血がつながっていなくても「かわいい」と思える、心から愛せると思えました。「産みたい」じゃなくて「育てたい」、「親になりたい」と思ったんです。

里親になろうと決心するも夫は「なんでそんなに子どもなん?」

2009年、不妊治療中に夫と和歌山へドライブしたときの一枚

── そのお気持ちをご主人に伝えたときはどんな反応でしたか?

岩朝さん:「里親になりたい」と相談した当初は全然、乗り気じゃなかったんです。「なんでそんなに子どもなん?ふたりで楽しく生きていこうよ」って。そりゃそうですよね。突然、里親なんて、夫からしたら青天のへきれきですから。でも、私は「子どものいない人生は考えられないから、申し訳ないけど離婚を想定した話し合いをしたい」と夫に申し出ました。そうしたら、「それなら話は別」と(笑)。話し合いを重ねた結果、夫も里親になることを決意してくれました。

── ご主人は本当に岩朝さんを大切に思われているんですね。

岩朝さん:ありがたいですね(笑)。ただ、私はそこで「治療をやめる」という決断はできませんでした。治療をやめてしまったら、自分の子は100%望めないという現実を受け入れることになる。その事実がつらくて、やめるとは言えなかったんです。「治療をお休みをしている間に里親になろう」という気持ちでした。

2010年、里親登録も終わり、治療を休憩するなかで香港へ旅行した岩朝さんご夫婦

── 自分の子を産み育てたいという思いを諦めきれない気持ちはよくわかります。

岩朝さん:でも、実際に里親になってみたらすごく楽しかったし、子どもがかわいかった。それに、不妊治療がすごくしんどかったのもあります。どんなに頑張っても実を結ばないという状況は、精神的にすごくつらかった。自分を見失っていた時期もありました。そんななかで「里親」という、自分が前向きに取り組めるものを見つけられた。水を得た魚のように、本来の自分のポジティブさを取り戻せて、前に進むことができました。

── それで不妊治療にひと区切りをつけると決めたんですね。

岩朝さん:そうです。当時、私は35歳。不妊治療の世界では、35歳は「ギリギリだね」って言われるけれど、里親の世界では「最年少」でした(笑)。

不妊治療は35歳を超えると妊娠率が低くなるといわれています。これは私が実際に経験して感じたことですが、もし子どもが本当にほしいなら、35歳を超えた段階で里親制度を検討してほしい。40歳までに里親制度の門をたたいておいたほうがいいと思います。40歳を過ぎると特別養子縁組や里親へのハードルが高くなっていくからです。多くの人が思っているよりも、もっと早めの決断が必要だと感じています。

PROFILE 岩朝しのぶさん

いわさ・しのぶ。1973年、宮城県生まれ。先天性の病気によりこれまで17回の手術を経験し、シングルマザーの母親に支えられ幼少期を過ごす。25歳で起業後、広告代理店業の代表に就任。不妊治療を経て養育里親となり、現在も現役里親として子どもを養育している。認定NPO法人日本こども支援協会 代表理事 一般社団法人明日へのチカラの代表理事 「ドコデモこども食堂」代表。

取材・文/高梨真紀 写真提供/岩朝しのぶ