『キングダム』にも登場の「あの偉人」も行った、国を統一する「意外な方法」

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3,000年以上前に誕生した漢字の祖先、甲骨文字は歴史の中で様々な変化を遂げてきた。中国最古の王朝・殷代で生まれ、次の西周で作字が理論化されて整理された「文字」の運命は技術や社会の発展、激動の政治に左右されることとなる。

落合淳思『部首の誕生 漢字がうつす古代中国』(角川新書)より、内容の一部をお届けします。

社会の変化によって、文字の形も変化する

紀元前8世紀には、内乱によって本家である西周王朝が滅亡し、代わって分家の東周王朝が東方で再興した。東周代は春秋戦国時代とも呼ばれる。

前半の春秋時代(紀元前8〜前5世紀)には、王朝の権力が衰退し、各地の諸侯(地方領主)が独自に外交を展開するようになった。中小諸侯を支配する「覇者」が出現したのもこの時代である。

後半の戦国時代(紀元前5〜前3世紀)になると、覇者の権力も崩壊した。そして、大規模な諸侯は専制君主(独裁君主)へと変貌し、中小諸侯を併吞していった。さらに、徴兵制を導入し、大諸侯同士で激しい戦争を繰り返したのである。

戦国時代は、法律が整備され、官僚制が発達したことが特徴である。そのため、以前の時代よりも識字率が上昇し、漢字の使用者数が増加した(それでも全人口の1%未満と推定されている)。また行政文書として漢字の使用頻度も増加したため、書きやすさが重視され、象形性がより減少した。

しかも、当時の分裂した社会状況を反映し、文字の形も諸侯ごとに異なるようになった。文字によっては構造そのものが違う場合も見られる。図に戦国時代の各地で使われた「起」の例を挙げたが、「走」ではなく「辵」を使ったものや「己」ではなく「巳」を使ったものなどがある。

また、戦国時代には、各種の思想も発達した。孔子を開祖とする儒家か 、儒家から派生した厳罰主義の法家 、無為自然を是とする道家かなどである。

思想の発達に伴い、抽象的な概念も多く出現した。そして、それを表す文字も作られたのだが、抽象的な概念を象形性によって表すことは難しく、これも造字における象形性の弱まりを進めた。

文字の形の統一は、支配の方法の一つ

戦国時代の文字の媒体としては、引き続き金文(青銅器の銘文)もあるが、近年(ここ半世紀ほど)には南方の長江流域で作られた簡牘文字(竹の札や木の板に書かれた文字)が多く発見されている。長江流域には湿地帯が多く、酸素の少ない水が入り込んだ墓や井戸などで、竹簡(竹の札)などが腐食せずに保存され、近年に発掘されたのである。

簡牘文字は媒体が安価であるため、字形も簡素化する傾向が強い。また細い筆で書いているため、後の八分隷書や楷書のような筆法は未出現である。

春秋戦国時代の分裂を統一したのが秦の始皇帝であり、紀元前221年のことである。始皇帝は、領土的な統一を達成するだけではなく、制度的な統一も進めた。封建領主を廃止して官僚を派遣する郡県制を全国で施行し、また厳罰を特徴とする秦の法律制度も全国に適用した。

そうした統一支配の一環として、字形の統一も進められた。それが篆書(小篆)である。篆書は、それまでの秦の金文を基礎としつつ、一部に新しい文字や字形が採用されている。ただし、全く新しい形が作られることはまれであり、ほとんどが既存の文字の組み合わせであった。金文系の字形を反映して曲線が多いことが特徴である。

もっとも、統一されたのは正式な文書や碑文などの字形のみであった。竹簡などに書かれる手書きの文字は戦国時代の簡牘文字を反映したものが多く、正式な書体と簡略化された書体が併用されたのである。秦代の木牘(木の板)を見ると、同時代の篆書よりも、戦国時代の竹簡に近い書き方をしている。

使われなくなる文字と、残る文字

秦王朝では、始皇帝による大規模な戦争や土木工事によって農村が疲弊した。そのため始皇帝の死後まもなく大規模な反乱が発生し、項羽によって滅ぼされた。さらに、項羽政権も安定せず、配下の劉邦によって滅ぼされた。中国は劉邦によって再統一されたのであり、これが前漢王朝(紀元前202〜後8年)である。

前漢王朝は秦の制度や法律を引き継ぎつつ、より現実的な政策を採用した。封建領主と郡県制の併用(郡国制)や、法家思想に偏らない思想体系などが特徴である。文字についても、秦代と同様に、篆書と簡牘文字が併用された。

前漢王朝は、西暦8年に王莽により簒奪されたが、間もなく傍系が後漢王朝を再興した(25〜220年)。この時代には、手書き文字の隷書が普及している。

後漢代には、製紙技術の改良によって、太い筆で紙に書くことが多くなった。そのため、より美しい筆法が重視され、正式な書体として「八分隷書」が出現した。戦国時代以来の手書き文字は、篆書に比べて正式な字形ではないとして「隷」と呼ばれ、秦代の「秦隸」、漢代の「草隷」などがあったが、その地位が逆転したのである。

八分隷書は、長い横画の末端にある払い(波磔と呼ばれる)が特徴である。字形も縦横の画が中心となって、曲線が減少しており、現在の字形(楷書)に近いものも見られるようになっている。

科挙によって決まった「正字」

もっとも、後漢代の八分隷書には篆書を継承したものもあり、文字の体系は単線的にとらえられないことに注意が必要である。例えば、「麦」は旧字体が「麥」だが、実は前者が簡牘文字系、後者が篆書系の字形であり、2千年以上にわたって並行して使用されたのである。

後漢代には、漢字研究の画期となる『説文解字』という文献が作られ(西暦100年成書)、そこで初めて部首分類がおこなわれた。『説文解字』は形声文字の意符を重視したという特徴がある。

そして、中世になると、筆法をより厳格化した楷書が出現した。楷書の筆法を完成させたのは4世紀の王羲之とされるが、当時はまだ字形が定まっておらず、多様な異体字(並行する字形)が使用されていた。

その後、隋王朝(581〜618年)・唐王朝(618〜907年)になると、官僚の登用試験として「科挙」が実施されるようになる。科挙では字形も採点対象になったため、異体字のうちどれが最も正式なのか、つまり「正字」を定める必要が生じ、正字と俗字が決められていった。

唐代の字形の正俗を記した『干禄字書』という文献を開くと、「正」が正字、「通」が通用可能字、「俗」が俗字となっている。唐代にも「篆書が最も正式である」という認識があったようで、隷書で略体になっていた文字について、篆書に基づいて構造をあらためた例も見られる。

また、俗字といっても全てが使われなくなったのではなく、一部は手書き文字や印刷文字として便利な略体として使用が続けられ、現在まで残った字形も少なくない。

現在に残る漢字

前述の『説文解字』以降にも、諸種の字典が作られた。ただし、『説文解字』は540もの部首を設けており、検索に不便だったため、近世に修正が加えられ、明王朝(1368〜1644年)の末期に214に整理された。現在の日本で漢字の基準とされているのは、清王朝(1616〜1912年)の時代に作られた『康熙字典』(1716年成書)であり、これも214部首を採用している。

『康熙字典』は、4万字以上を収録しており、漢字全体の基準とされる。そして『康熙字典』に掲載された見出し字形が、現在では「正字」と見なされている。もっとも、膨大な漢字を収録しているため、編集が万全ではなく、字形の誤りや部首分類の乱れも見られる。

そして、現代の日本で採用されているのが「新字体」である。戦後に制定された「当用漢字」は、一部に書くことが容易な略字を「新字体」として採用しており、それを引き継いだ「常用漢字」や追加された「人名用漢字」にも採用されている。正字(旧字体)と新字体で字形が異なるものは500字ほどにのぼる(数え方によって字数は異なる)。

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