人生の絶頂を迎えた式の壇上で倒れて死去…「文化人類学」を生み出した天才の「壮絶な最期」

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「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。

※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。

「生のあり方」を考える

『はじめての人類学』2章、3章ではそれぞれイギリスの人類学者マリノフスキと、フランスの人類学者レヴィ=ストロースを取り上げました。もうひとつ忘れてはいけないのが、アメリカの人類学です。

そもそも南北戦争(1861―1865)を経た19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカの人類学の形成には、すぐ近くに先住民であるネイティブ・アメリカンがいたという事実が大きく関わっています。遠く離れた土地ではなく、自分たちの住む場所で古くから暮らしていた先住民に対する研究が進められていったのです。

アメリカは、移民がつくった国でもあります。18世紀の後半以降、イギリスやその他のヨーロッパ諸国からやって来た移民たち、19世紀初頭までの時期にアフリカから強制的に連れてこられた黒人奴隷たち、19世紀以降にやってきたアジア系移民などが合わさることにより、アメリカという国がつくられました。そうした状況の中、ドイツからの移民であったフランツ・ボアズによって生み落とされたのがアメリカの人類学です。

20世紀に入るとアメリカでは急速に工業化が進みました。その影響によって都市環境の悪化、貧富の格差や黒人の市民権をめぐる課題などの問題が噴出し、アメリカは社会改良と制度調整に取り組まなければならなくなりました。このような時代に直面し、発展したのが、アメリカの人類学だったのです。

アメリカの人類学は同時期に英仏で生まれた人類学からだけでなく、その他の諸科学からの影響を受けながら発展しました。「文化」という概念に拠りながら培われたアメリカの人類学は、「文化人類学」と呼ばれます。文化とは、端的に述べれば「生のあり方(ways of life)」のことです。本章では、ボアズとその学生たちが築き上げていった「生のあり方」をめぐるアメリカの人類学を取り上げます。

ネイティブ・アメリカンの研究には、古くは聖フランシスコ会原始会則派の布教に向かったフランス人ガブリエル・サガールの1632年の『ヒューロンの大地への長い旅』や、1724年のジェスイット派のフランス人神父ジャゼフ・ラティフォーの『北米インディアンの習俗と原始時代の習俗との比較』などがありました。17世紀の哲人ジョン・ロックは1675年から1679年までのフランス滞在中に多くの旅行書を買ったのですが、そのうちの一冊がサガールの著書だったと言われています。

スピーチの途中で突然…

ドイツの貴族マクシミリアン・フォン・ウィート=ノーウィートは、1839年から1841年にかけて2巻本『北米奥地探訪』を出版しています。その中では、ミズーリ川流域に住むマンダン、ヒダツァなどのネイティブ・アメリカンが描かれています。

そんなアメリカのネイティブ・アメリカン研究を大きく発展させたのが、ドイツ生まれの移民だったボアズです。

1858年にドイツのウェストファリア地方のミンデンのユダヤ人の家に生まれたボアズは、ドイツ北部のキール大学で物理学を修め、水の色の認識についての博士論文を執筆し、1881年に博士号を取得しています。

博士号を取得した後、環境と人間の心理の関係に興味を持ったボアズは地理学に転じます。当時、彼は「個々の文化は独自に発生する」という文化史観を持っていた博物学者アドルフ・バスティアンの影響を受けていました。そして産業化し、ますます複雑になっていく社会とは反対の単純な環境で生き続けている人たちを調査研究するために、1883年にカナダ北東部のバフィン島へエスキモーの調査研究に出かけます。そこでボアズの人類学者としての人生がスタートしたのです。バフィン島の調査をきっかけに非西洋の文化に関心を持ったボアズは、その後、ベルリンの民族博物館に勤め始めます。

ドイツはその頃、ヨーロッパの中では発展途上国でした。鉄血宰相として知られるビスマルクがイギリスやフランスに対抗できるような国民国家としてのドイツの統合を目指すようになったのは、これよりまだ後のことです。当時、ドイツでは徐々にユダヤ人が排斥される風潮が高まっていました。ユダヤ人であったボアズはその流れに巻き込まれ、憂鬱な日々を送っていたのです。

そんな折、ボアズは1886年にふたたび北米西海岸の調査研究に出発し、そのままアメリカに移住することを決めます。彼は1887年にニューヨークで市民権を得て、1889年から1892年までクラーク大学で人類学を講じています。

ボアズはシカゴの博物館勤務を経て1896年にコロンビア大学の講師になり、1899年には教授に昇進します。そこでアメリカ初となる人類学の博士課程の設置に力を注ぎました。その後、コロンビア大学を1937年に退任するまでの間に、多くの後進を育てます。1942年、ボアズは彼の栄誉を称える記念昼食会の席上で「人種に関する新しい理論を考えだし……」と呟き、そのスピーチが終わる前に倒れ、そのまま息を引き取りました。

さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。

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