女性の仕事の給料が安すぎる…その歴史的理由

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「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

エッセンシャル・ワークとジェンダー

「エッセンシャル・ワークの逆説」というテーマは、実はジェンダーの問題に深くかかわっています。もともと、神学的な労働の観念は、創造主である神が父であるように、あるいはイエスが男性であるように、生産の主体を男性に配分してきました。

とはいえ、ヨーロッパの封建制では、貴族階級においては、女性男性ともに、「サービス」にかかわる仕事をおこなっていましたし、また農民においては女性も男性とともに生産にもかかわっていました。それが資本主義の成立過程でどう変化するのか?フェミニストの歴史家シルヴィア・フェデリーチはつぎのように整理しています。

(i)女性の労働と女性の再生産機能を労働力の再生産に従属させる、あらたな性別分業の発展

(ii)賃労働からの女性の排除と女性の男性への従属を基盤とする、あらたな家父長制体制の構築

(iii)プロレタリアートの身体の機械化とその変容──女性の場合それは、あたらしい労働者を生産する機械への変容を意味した

フェデリーチも、グレーバーとおなじアプローチをとっています。つまり、ヨーロッパの中世末期には、農民たちがかつてなく力をもち、自律化の動きを強めていきました(マルクスも、14〜15世紀を農民の黄金時代といっています)。

中世末期における商業や貨幣経済の発展はダイレクトに資本主義にむすびついていたわけではありません。それは封建制を解体させるいっぽうで、農民の政治的・経済的自律を高めていきました。このとき、市場経済の発達は、農村共同体を解体させるよりは、むしろ農民たちの共同体的倫理を促進させる役割をはたします。

さらに14世紀のペストの流行は、農民人口を激減させたため、それがまた稀少な労働力としての農民の力を高めました。理論家の関曠野さんはつぎのようにいっています。

「最もありそうなことは、この危機が長期的には農民層によって超克され、農民と都市細民層の共和制が封建支配にとって替わることであった。その場合には西欧経済には農村の『道徳経済』の刻印が押されて、商業は消滅こそしないものの、この経済を補完し最適化する機能を果すことになった筈である」

そして、こうした自律化を強める農村共同体の中核において重要な役割をはたしていたのが女性たちでした。フェデリーチによれば、資本主義は、この過程への反動です。

つまり、その過程を封じるさまざまなレベルでの動きの積み重ねによって、資本主義は形成されていくのです。

共有地を所有地として囲い込み、生活手段を剥奪することを通して、農民たちの賃金への依存を余儀なくさせ、女性がみずから管理していた生殖の過程を奪い──その一環が魔女狩りです──、その身体を国家の管理のもとにおくと同時に、生産の場所からも排除していく。こうして農村は自律の基盤を解体させられます。

この過程のはてに、労働が主要にモノの生産にかかわるものとみなされ、女性はその生産領域から排除され、「私的領域」つまり家庭内で、その労働力を生産(出産、いわゆる「生む機械」です)し、再生産する(養育し世話をする)役割へと還元されていく。

つまり、女性の広範囲にわたっていた活動が「私的領域」に閉じ込められ、(「愛の名のもとに」)無償化され、あるいは価値が切り下げられるのです。

そしてその活動が現在のようにますます市場化されていったとしても、その価値は低いままであり、その価値の低さは、いまだその担い手の多くが女性であるということとかかわっています(国連の報告によれば、世界の医療・介護従事者の約70%を女性が占めています)。

コロナ禍が「エッセンシャル・ワーク」として浮上させたかなりの部分が、このケアに属するものでした。グレーバーは、2020年5月に『リベラシオン』紙に掲載された長めのエッセイでつぎのように述べています。

現在の危機によってひとつの結論をみちびきだしうるとすれば、古典的な意味での「生産的」な──つまり、それまでは存在しなかった物理的対象を作りだすという意味での──仕事は、ごく一握りにすぎないということである。もっとも必要不可欠な仕事の割合においてもそうなのだ。そして、ほとんどの「エッセンシャルな」仕事は、実際にはさまざまなかたちのケアのつらなりである。つまり、だれかの世話をしたり、病気の人の世話をしたり、生徒に教えたり、移動したり、修理したり、掃除したり、モノを保全したり、他の生き物のニーズを提供したり、その繁殖できる条件を確保したり

「家事労働に賃金を」

ここでリスト化されたケアの系列にある活動は、先ほどふれましたが、フェミニズムの文脈では「再生産労働」と呼ばれてきたものとおおよそ重なっています。

「再生産労働」とは、「モノの生産」としての労働にあたる労働力をそもそも生産(出産)し、養育し、精神と身体の両面を支えるための、家事をはじめとするさまざまな活動を指しています。

この次元を、たんに労働力を再生産するにとどまらず、このわたしたちの世界の維持に対する根源的寄与として認識する発想の根源には、「再生産労働」を俎上にあげたフェミニズムの系譜がひとつにはあります。

その系譜のなかでは「家事労働に賃金を」というスローガンが有名ですが、『ブルシット・ジョブ』にはその運動の潮流に属していたキャンディという活動家の女性が登場して、1980年代に国際家事労働賃金運動(International Wages for Housework Movement)に参加したその経験から、この運動やそこで提起されたあたらしい世界の見方の意義を語っています。

キャンディによれば、この潮流は「家事に対して賃金を」と要求することで、世界の見方を変えようとしました。たしかに賃労働システムは、グローバルな規模で人々の労働を搾取します。

レイシズムやナショナリズムが資本主義社会につきものなのは、ひとつにはグローバルな規模で労働者のあいだに分断を生みだし、労働者のあいだでの競争を通して賃金や労働条件を低劣なまま維持し、差別に由来する反感を通じてこの搾取への体制を保全することにあります。

彼女たちは、それだけではなく、賃労働システムは、時間で測定できる労働とそうではない労働を分断すると指摘しました。このシステムはその「本当ではない」労働なしには一瞬たりとも存在しえないにもかかわらず。

キャンディの属していたフェミニズムの潮流は、「家事」そのものをひとつの労働(「家事労働」)として、ひいては(価格のついた)価値の形成に寄与する労働としてあぶりだしました。

家事に対して賃金を要求することによって、「家事」の意味は一挙に「労働」へと転換するのみならず、その領域そのものが問題ぶくみの(葛藤にさらされ、闘争につらぬかれた)領域として浮上したのです。

家事とは利潤をふくむ価値形成に寄与するひとつの労働ですが、資本主義的生産様式の支配する社会のもとにあって、その領域とそれを構成する諸活動は女性の属性の「自然の発露」──女性は本質的に、愛をもって子どもを産み育て、夫を支えるものだなど──として不可視化され、すなわち無償化され、そしてその価値を切り下げられてきました。

その活動にあらためて賃金を要求することで、彼女たちは、この主要にケアの領域にかかわる活動やその前提をジェンダーに絡んで権力や搾取の行使される政治として認識させたのです。

そしてそのような作業を通して、その再生産領域の諸活動にひそむ社会的価値を深く認識させるとともに、その活動からそれにまつわるジェンダーや資本がらみの支配―従属関係を解除しようとしたといえるとおもいます。

グレーバーがこのフェミニズムの潮流に多大なる影響を受けていることはまちがいありません。

ただし、キャンディたちもいっていますが、「家事労働に賃金を」という要求は、そのスローガンを政策的に実現させるよりも、「挑発」のほうに、つまり、以上にみてきた世界の見方の変容のほうに、より比重をおいていました。

それがもし本当に実現するならば、この再生産の領域、ひいてはケアの領域まで商品化の論理に巻き込まれてしまうことになります(実際に起きていることですが)。

当時このスローガンに対して女性たちが示した抵抗も理解できると、キャンディは述べています。そしてそこから、ベーシック・インカムの要求へとすすんでいったというのです。

つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。

なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病