日比谷公園の再開発で樹木が伐採されていく…知ったら唖然とする、その「大きすぎる損失」

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日比谷公園に起きている変化

首都・東京の日比谷公園。

東京駅からほど近く、皇居のすぐそばという絶好のロケーション、官公庁や大企業のビルが立ち並ぶ中で、穏やかな空気の流れる広大な公園だ。

しかしいま、この都会のオアシスが揺れている。東京都と三井不動産が主導する再開発のために公園の木々を切り始めているのだ。

2024年3月時点で、すでに大噴水の横が大きく工事用フェンスで囲われていた。外側には「バリアフリー化工事」と大書されているものの、透明な部分から覗くと中は更地である。

第二花壇はなくなり、敷石もすべて剥がされ、樹木も伐採されている。計画によると、ここはすべて大芝生とされてしまうようだ。

バリアフリーといって思い浮かべるのは、段差のない順路、手すり、点字ブロック、さわれるマップや音声地図、排除しないベンチや多機能トイレだろう。そのような設備の増設や改築をして、これまで通りの緑ゆたかな日比谷公園の自然を、より多くの人に親しめるようにすればよい。

バリアフリーは重要だが、そのために、歴史ある公園を、草一本ない更地にせねばならない必要はあるのか? 疑問に思う。

東京は世界的に見て、公園の多い都市

実は東京は、世界の首都の中で見ても緑地の数が多い。

ニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマ、イスタンブール、香港、ソウルといった世界の大都市と比べても、また国内の大阪、名古屋、広島、福岡などの大都市と比べても、東京の山手線の内側は、10分、15分歩けばどこかしらの緑地や公園にいきあたる。そういう感覚を、わたしは都民として持っている。

芝浦工業大学工学部土木科の2021年の学術講演会資料に、「世界主要都市の公園・緑地の規模と配置に関する比較考察」というレポートがある。それによると東京は、世界の他の大都市に比べて、公園・緑地の「数が多く、また分散している」という特徴があるそうだ。歩けば公園にぶつかるという印象は数字にも表れているようである。

皇居は5,000種以上が生きる、生物多様性の宝庫

分散型の小規模公園が多い一方で、東京には大規模な緑地も目立つ。

まず、中心にぽっかりと広がる「皇居」そのものが巨大な緑地だ。

皇居の一部には、江戸期からつづく自然も残る。国立科学博物館による調査では植物1,616種、動物4,287種の生息が確認され、皇居の存在が生物多様性の保全に寄与していることがわかっている。

いまは2021年から第3期の調査が行われていて、過去2期と同様に絶滅危惧種や新種の発見も期待される。

また、城西を向けば「明治神宮の森」がある。明治神宮はその名の通り、明治天皇とその妻の昭憲皇太后をまつる神社として、大正9年(1920)に創建された。

神宮内苑の森は非常に科学的に設計されている。当時、最新の林学・造園学を修めた本多静六、本郷高徳、上原敬二らの専門家が、循環する森林を完成形として目指し、カシ、シイ、クスなどの常緑広葉樹を中心に樹木を選んだ。

明治天皇・皇太后をまつるということで、日本津々浦々から木々が「奉納」され、ほとんどの植樹はそれでまかなわれた。当時は日本領だった台湾やサハリンからの献木もあったという。

明治神宮の「林苑計画書」を見ると、初期は「成長が早く背の高い針葉樹」が森の主要な役割を務め、それらが寿命を迎えたあとに、「ゆっくりと育った常緑広葉樹」がメインの森になることを予想して植えられていたことがわかる。

人間の手入れの少なくて済む「自然に近い生態系」を目指して設計されており、造園以来、苑内の落ち葉は苑内でまた土に還っている。100年以上かけて育てた森と土壌なのだ。

都心に緑地や庭園が多い理由

都心に緑地や庭園が多い理由は、日本史とも深く結びついている。

江戸時代、徳川幕府は各藩の大名の力をコントロールするために参勤交代制度を敷いた。豪華な大名行列で散財させ、正室や嫡子などを江戸住まいさせることで、幕府に対し謀反を起こす力を削いだのだ。各藩は江戸の街中のあちこちに大名屋敷を建てる必要に迫られた。

時代が変わり、廃藩置県となったあとは、これらの大名屋敷と庭園が明治新政府によって活用される。いっとき荒れ果てた時代もあったようだが、武家屋敷跡というまとまった敷地があちこちに存在したことが、公園はもちろんのこと、官公庁や大学など、近代化のための公的施設の設置に好都合だったのだ。

冒頭に挙げた日比谷公園も元をたどればそうだ。萩藩毛利家などの大名屋敷があった場所に明治4年(1871)に陸軍操練所が置かれ、それが明治18年(1885)には日比谷練兵場と名を変える。

その後、日比谷周辺一帯に役所の機能を集約することとなり、いまの霞ヶ関と呼ばれる官庁街の元ができる。日比谷練兵場は明治19年(1886)に青山へ移され、青山練兵場となった。そして日比谷練兵場だった場所に「日本初の西洋式庭園」である日比谷公園ができたのだ。

明治期に輸入された「公園」という概念

それまで、日本には神社仏閣や個人の所有する日本庭園はあっても、誰もが入れる「公園」はなかった。

明治期の知識人は、さまざまな舶来の概念を漢語にして日本語の中に定着させたが、「公園」はその中でもよくできた翻訳語のひとつだろう。パークを公園と訳すことで「公(おおやけ)の園」つまり「パブリックな庭」と定義したのである。武家や華族などの限られた階級の私有地ではなく、市民が自由に入ってくつろげる庭が公園なのだ。

そもそも世界的に見ると「公園の誕生」はイギリスの市民革命と産業革命に端を発している。人口が流入して過密となった都市部で、労働者の休息ニーズに対応するために、自治体の管理する「公共の庭」の必要性が生まれたのがルーツのようだ。1984年にできたリバプール郊外のバーケンヘッド・パークが世界初の公園だという。

イギリスにならって日本でも公園制度がつくられた。明治6(1873)年、公園開設に関する太政官第16号が出され、2023年には150周年を迎えた。当時、日比谷公園を皮切りとして、上野恩賜公園(東京都)、円山公園(京都市)、白山公園(新潟市)など日本各地に公園がつくられた。

この「公園の誕生」は、江戸時代までの「お上(カミ)/庶民」という上下ではなく、日本に「パブリック(公共圏)/プライベート(私的空間)」という分類が生まれた節目のひとつともいえるかもしれない。

都内に点在する武家屋敷の名残

日比谷公園の他にも東京都心には、武家屋敷跡が庭園や緑地として残っている例が数多くある。まず皇室の東宮御所、迎賓館などは、紀州徳川家の赤坂上屋敷があった場所だ。

また、新宿御苑のルーツは、徳川家の譜代大名であった内藤家2代目の清成が、多年の功労と江戸城警固の功績を認められ、かの地に屋敷地を拝領したことが始まりだという。天正19年(1591)のことである。

御苑からもほど近い代々木公園の前身は、代々木練兵場だ。このあたりは江戸時代には大名や旗本らの下屋敷が点在するエリアだった。浜松町駅のそばにある、海に突き出した浜離宮は、徳川将軍家の別邸の庭園として築かれたものだ。

駒込には六義園がある。ここは幕府側用人だった柳沢吉保が、五代将軍綱吉から元禄8年(1695)に賜った敷地を別荘庭園として造った。回遊式築山泉水庭園といって、江戸期の大名庭園としての特徴を備えている。

東京ドームに隣接する小石川後楽園や、清澄白河の清澄庭園なども元は武家の庭園であり、たった数百円の入場料で気軽に見て回れる大名庭園が都内あちこちに残っている。

実は大学キャンパスも武家屋敷跡に設置された例が少なくない。東大の本郷キャンパスは加賀藩前田家の上屋敷跡地だ。シンボルの赤門は、当時の前田家の輿入れのための門で、文政10(1827)年に建立されたものである。

神田・駿河台周辺に明治大学や中央大学、専修大学をはじめ大学・学校が集まっているのも同じ理由だ。江戸時代には神田地区の西側が武家用地だったため、区割りが大きく、明治以降に大規模用地取得がしやすかったのである。エリアは違えど、慶應大学三田キャンパスも、福沢諭吉が旧島原藩から購入した屋敷跡地にできている。

都心にまとまった開発用地や庭園が存在していたのは、参勤交代とそれにともなう大名屋敷あってのもの。東京の街にはいまなお、江戸の名残が公園や大学というかたちで物理的に息づいているのである。

記事後編は「日比谷公園が再開発で激変する…都民の多くが知らない、その『裏事情』と小池都知事の『皮肉』」から。

日比谷公園が再開発で激変する…都民の多くが知らない、その「裏事情」と小池都知事の「皮肉」