重度障害者が施設を占拠――”無法者”たちのてんまつ

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和歌山県の青い芝の会員が自殺した。関西青い芝は、入所していた障害者施設に問題があるとして、糾弾闘争を開始する。責任を追及し、施設に入り込んだ闘争団のメンバー16人は、バリケードを築き施設を占拠、施設側と交渉を続けた。「僕らはここで死のう」。メンバーは口々に決意表明した。針金で体を縛り、最後まで抵抗する覚悟だったメンバーたちだが……。

本記事は『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』(角岡伸彦著・講談社刊)の一部を抜粋・再構成したものです。

『カニは横に歩く』第3回

第2回「命がけの在宅障害者の家庭訪問」より続く

障害者施設のさまざまな問題点

〈不自由青年、自殺か 紀勢線 急行にはねられ即死

【串本】15日午後6時30分ごろ、西牟婁(にしむろ)郡すさみ町口和深の国鉄紀勢線で、男の人が新宮発天王寺行き急行「きのくに14号」(藤社泰運転士)にはねられ、頭の骨を折り即死した。線路わきに松葉ヅエが置いてあり、串本署の調べでは、和歌山市毛見琴の浦一四三七、県立身体障害者福祉センター寮内藤田正弘さん(23)とわかった。

藤田さんは、口が不自由な重度の脳性マヒで、実兄と和歌山市内に住んでいたが、昨年四月、同センターに入所、今月11日に家出、県警に保護願いが出ていた。

現場は見通しの悪い左カーブだが、藤社運転士は、「藤田さんは線路上にうずくまるか、寝ているようだった」といっており、同署はからだの不自由を苦に自殺したのではないかとみている。この事故で同急行は39分遅れた。〉

76年1月17日、読売新聞朝刊の和歌山県版に、一人の障害者の自殺記事が掲載された。自殺した脳性マヒの青年は、和歌山青い芝の会員だった。

関西青い芝などの資料によると、藤田は子供の頃から施設で暮らしていた。母親に会うため、施設を逃げ出したこともあったが、その母親とは死別した。父親は家にいたりいなかったりで頼りにならなかった。三人のきょうだいはそれぞれ結婚しており、本人にその気はなかったが、親代わりの兄の勧めにより、養護学校の高等部を卒業後、全寮制の和歌山県立身体障害者福祉センター(以下、センター)へ入所した。実家の近くにアパートを借り、週末はそこで過ごした。センターに入所する直前に青い芝の存在を知り、入会した。間もなく「和歌山青い芝の会事務局補佐」の役職を与えられる。

「もう2週間早く青い芝と出会うのが早ければ、僕はセンターに行くのをやめたのに」

姫路市立書写養護学校の卒業生で青い芝の「関西制覇」をめざすため和歌山に移り住んでいた鈴木洋子は、藤田が文字盤でそう指差したのを目にしている。

センター入所後は、週末を中心に青い芝の街頭行動や在宅訪問にも積極的に参加していた。しかし藤田が青い芝の仲間に語ったところによると、センター側はそれを快く思っておらず、青い芝からの知らせや手紙を渡さなかったり、外出を妨害するために職員が松葉杖を取り上げることもあった。

入所者の多くは軽度の障害者で、センター内では比較的重度であった藤田は、他の入所者に比べて作業や動作が遅れがちだった。そのことで入所者から仲間はずれにされている、と和歌山青い芝の会員に語っていた。

青い芝の仲間がセンターに藤田を訪ねると、職員は「藤田君、あんたみたいな人でも訪ねてくれる人がいるのねえ」と嘲笑した。入所してわずか数ヵ月後で、「いつかはセンターを出たい」と青い芝の仲間に打ち明けていた。

センターに入所した最初の夏、和歌山青い芝のメンバーと藤田は、彼のアパートで将来の生活について語り合った。その後、ぷつりと音信が絶えた――。

重度障害者ら16人で闘争団を結成

仲間の自殺を知った関西青い芝は、緊急役員会を開いた。

「福祉センターをぶっつぶせ」

「私達を殺す施設に用はない」

「死んでも戦うぞ」

激しい言葉が役員の口から出た。役員会はセンターに対して抗議することを決議した。関西青い芝の代表だった鎌谷正代が当時を振り返る。

「施設があるから差別されんねん。だいたいわたし自身が播磨養護(学校)でバカにされとったから、施設の中でCPがバカにされるのは目に見えてわかる。ほいでわたしら(青い芝)とかかわったということで余計のこと差別受けて殺された。なんちゅうこっちゃ、そんな施設はつぶさなあかん、あること自体おかしいいうことでセンターに乗り込んだ」

決起までの5日間。関西青い芝の全会員(約300人)に、抗議行動に立ち上がる経緯と趣旨が口頭で伝えられた。会員のほとんどは在宅障害者で、青い芝の幹部やグループ・ゴリラのメンバーは、フル回転で在宅訪問を敢行した。

和歌山、大阪、兵庫、さらには東北から福島の二人を加えた16人による「闘争団」が結成された。福島青い芝は、鎌谷や松本孝信らの呼びかけで74年に結成されていた。

『和歌山県立身体障害者福祉センター糾弾闘争報告集〈改訂〉』(以下、闘争報告集、関西青い芝、1977年)によると闘争団のメンバーは「寝たきりのもの」が二人、「ものも言えず歩けないもの」が一人、「手のきかないもの」が二人、「すわりっきりのもの」が五人、「かろうじて歩けるもの」が四人、「なんとか抵抗できそうなもの」が二人であった。

会員の自殺から11日後の76年1月26日午後1時30分、闘争団はグループ・ゴリラのメンバーらとともに乗用車5台に分乗し、センターに乗りつけた。ハンドマイク、団体旗、ビラ等の荷物と数人の支援部隊を残し、ゴリラのメンバーは、和歌山青い芝の事務所に引き上げていった。この時に限らず、闘争はあくまでも障害者だけでおこなうのが原則であった。

逃げる所長、追いかける青い芝のメンバー

闘争団は、センターの事務所で、職員に糾弾書を手渡した。糾弾書には以下の要求が記されていた。

イ、センター責任者は、謝罪書を提出せよ。

ロ、センター職員全員は、反省書を提出せよ。

ハ、監督官庁である、県当局の責任者は、謝罪書を提出せよ。

ニ、県当局は、障害者施策の策定にあたっては、障害者を参加させよ。

ホ、センター職員全員との話し合う場をつくれ。

ヘ、在所生全員との話し合う場を保障せよ。

ト、在所生の、行動、外出を無条件に保障せよ。

チ、センター職員を、「ふじたさん」の死をもとに、再教育せよ。

リ、センターを解放、ならびになくす方向で努力する事を約束せよ。

会見を求めた結果、ようやく姿をあらわした所長は、怒りに満ちた闘争団の迫力に気圧され、所長室に逃げこもうとした。追いかける青い芝のメンバー。所長は逃げ急ぐあまり、けつまずき、ひっくり返った。その際に唇を切り、血がにじんだ。その血を見た所長は「暴力障害者!」と叫び、所長室に鍵をかけたまま閉じこもってしまった。

驚いたのは所長だけではなかった。事務所の職員の中には、書類を抱えて逃げ出そうとする者もいた。「あんなに藤田君の面倒をみてあげたのに……」と漏らした職員もいた。

「いろいろ詮索するのはやめてほしい」

事務所の外では、支援部隊であるグループ・ゴリラのメンバーが緑地に「CP」と書かれた青い芝の旗を周辺に立てかけた。

闘争団は所長との会見を再度求めた。職員は恐れをなして、次々と事務所から出ていった。職員の通報で駆けつけた所轄の海南署の警官が、センターの玄関に現れたものの踏み込みはせず、事務所が見える玄関先で闘争団の出方をうかがっていた。

所長との会見を求めた闘争団と職員とのにらみ合いが続いた。

〈入所者と話がしたい〉

そう考えた闘争団のメンバーが、センター内をさがしまわった。しかし、三人の脳性マヒ者に会えただけだった。後に闘争団は、職員同士の立ち話から、裏口から入所者を逃したことを知った。

センター内で会えた入所者三人の話によると、藤田の死は知らされてはいたが、自殺したことは伏せられていた。三人は口々に、「センター職員は怖い。藤田さんがなぜ死んだのか、僕らは知っている。でも、証言はできない。僕らも帰るところがないから」と語った。三人はセンター職員の姿を見かけると、あわててその場から立ち去った。

その職員をつかまえ、藤田がなぜ自死したのかを問うと、話をはぐらかした上で、「彼ら(入所者)は表現能力にとぼしい。せっかくおとなしくしているのに、悪い影響を受けさせてもらっては困る。いろいろ詮索するのはやめてほしい」と語った。

バリケードを築き、闘争を開始

夕刻になり、騒ぎをかぎつけたマスコミ各社が、センターの玄関周辺に集まり始めた。

所長は「代表一人となら話し合ってもいい」と通告してきたが、闘争団は会議を開き、全員参加の交渉でなければ話し合いは受け入れられないことを確認した。

その旨を所長に伝えるべく、一人のメンバーが事務所を出ようとしたところ、マスコミにまぎれていた私服警官にとらえられた。警官の立ち会いのもとで、一人で所長と話をつけろという。ボス交渉の提案であった。メンバーは、私服警官を振り切って事務所に戻った。

警察の懐柔策を聞いた闘争団は結束を固めるべく、事務所のドアの内側に、室内にあった机や椅子を積み上げ、バリケードを築いた。関西青い芝によるセンター事務所占拠闘争の始まりだった。

「お前らはこんなことをして、いいことをしていると思っているのか!」

事務所の窓口の向こうで私服警官が怒鳴った。

午後7時。両脇に警官をしたがえた所長があらわれ「全員に会ってもいい」という。事務所の窓口をはさんでの交渉が始まった。

闘争団は、多くの障害者が行き場がなく、施設に入所せざるを得ない実態、いじめや差別が一人の入所者を自死に追いやった疑惑があること、その責任がセンターにあることなどを訴えた。所長は、「私自身も障害者なので藤田君の気持ちは理解できる。私達が差別をするはずがない」と述べ、「糾弾されるのは心外。所長、職員全員の謝罪文は書けない」と闘争団の要求を拒否した(所長がどんな障害を持っているのか、私が取材した限り誰も知らなかった)。

なおも闘争団は同じ主張を繰り返したが、両者は平行線をたどるばかりで、所長は半時間ほどで引き上げていった。

闘争歌は「およげ!たいやきくん」

闘争団の各メンバーは、自分の思いや決意をハンドマイクで語った。支援部隊の差し入れを食べながら、決意表明は続いた。

誰かが歌を歌おうと言い出した。何曲かをみんなで歌った。中でもその前月にレコードが発売されるやたちまち大ヒットとなった「およげ!たいやきくん」は、何度も全員で大合唱となった。

20代半ばを中心とするメンバー16人が、「まいにち、まいにち、ぼくらはてっぱんの……」と合唱する光景は、幼稚に見えなくはない。しかし、彼らには、歌詞が自分たちの境遇を暗示しているように思えた。海に逃げこんだたいやきくんが、いったん自由に大海を泳ぎ回るものの、最後は釣りあげられ食べられてしまうというストーリーに、健全者中心の社会でもがく自分たちが重なるのだった。

午後10時頃。機動隊が出動し、事務所周辺を取り囲んだ。

「僕らはここで死のう」

一人のメンバーが言った。

機動隊の突入を覚悟した各メンバーが、臨戦態勢に入った。当時、大阪青い芝のメンバーで闘争団の一員だった金満里は、その時の情況と心境を自著で次のように記している。

私は考えた。(軽度の者ならまだ、排除されるときに機動隊に殴りかかることぐらいはできるだろう。しかし、私のような重度障害者は、相手に何のダメージを与えることもできず、すんなり連れ去られるのがおちだ。少しでも抵抗を示したい。)見回すと事務室の中に針金があるのが目にとまった。(これで、机の脚に自分の首を縛りつければ、それを外すのに時間がかかり、少しでも長く床に坐ったままこの場に留まっていられる。)軽度の仲間にその旨を伝え、机の脚に自分の首を針金で縛りつけてもらった。他の何人かの重度障害者も、同じように縛ってくれ、といい出した。そして、その位置で垂れ流しである。(『生きることのはじまり』金満里、筑摩書房、1996年)

ただただ警察に拘束されるのではおもしろくない。できるだけ手間隙かけてやろう。それが重度障害者の金が考えた戦術だった。

午後11時30分頃。所長があらわれ、事務所から出ていかなければ警察に強制排除を要請する、と通告した。闘争団はあくまでも所長の謝罪文を求めた。

10分後に所長が立ち去った。闘争団のメンバーは、ある者はハサミで自分の指を切り、事務所の壁に「障害者解放関西青い芝の会」と血書した。床にペンキで同様のスローガンを大書する者もいた。また、ある者は事務所内のロッカー、机の引き出しにある資料、ファイルをびりびりに引き裂いた。バケツに糊、水、インクを混ぜて書類を突っ込む者、印刷機に小便をひっかける者もいた。事務所を取り囲む警官は、窓の外から「寒くないか、かわいそうに」と見当違いの声をかけた。

「警察も困っているんだ」

日付が変わった夜中の一時頃。センター周辺に新たな立て看板を設置しようとしたゴリラのメンバー数人が警察に拘束された。その一人が木下順である。

「捕まった時に僕らが危惧したのは、ゴリラに在日(朝鮮人)のメンバーが一人おったから、それがバレへんかが心配やった。本国に強制送還されると思とったから。ところが警察が取り調べで聞いてきたのは何かというと、いかに彼らを安全に保護するか、それに尽きるわけです。警察は僕ら健全者が彼らを動かしているんじゃないかということで捕まえた。ところが捕まえた誰をつついても彼らを動かしてる証拠は出てけえへんわけや。むしろ『僕らも困ってます。何とかしてください』とごまかしてた」

海南署での事情聴取後、ゴリラのメンバーは早朝に放免される。警察は青い芝のセンター事務所占拠に戸惑っていた。

闘争団がセンター事務所を占拠した日の夕方。和歌山青い芝の事務所内で待機していたグループ・ゴリラのメンバーが、事務所周辺に私服警官が張り付いたことに気付いた。センター事務所が緊迫すると、連絡を受けた県警機動隊の幹部が青い芝の事務所を訪れ、「彼らの親に連絡して来てもらったらどうだろうか」「やわらかく抱えて外へ出せばいいだろうか」「針金を首に巻いている。危険だからやめさせてくれないか」「警察も困っているんだ」と悩みをまじえた相談を持ちかけた。警察は明らかに、闘争団をもてあましていた。

午前3時。闘争開始から12時間以上が過ぎ、その疲れからうたた寝する闘争団メンバーが出はじめた。眠気を覚ますべく「およげ!たいやきくん」を全員で歌い続けた。

早朝に所長があらわれた。

「さあみなさん、車で送ってあげますから、帰りましょうね」

猫なで声で闘争団に声をかけるが、無視される。

午前9時30分頃。支援部隊が朝食を届けようとするが、窓口付近にいたセンター職員が阻止した。機動隊員は「メシぐらい入れたれや!」と声を荒らげた。

午前10時過ぎ。所長があらわれ「10分後に出ていかない場合は、強制排除にうつる」と通告。闘争団メンバーは、要求項目をシュプレヒコールし、退去拒否の姿勢をくずさなかった。海南署長は30分おきに口頭で自主的な退出を求め続けた。

午後12時。支援部隊からの朝食用の差し入れが、ようやく闘争団メンバーの口に入る。

午後1時30分頃。機動隊員を乗せた護送車が事務所前に到着。機動隊員と制服警官が事務所前に集結する。

県警機動隊と海南署の幹部は、センター周辺で事態を見守っていた支援部隊のメンバーに「説得してくれ」「(拘束後)どこにつれていったらいいのか」と最後の相談をおこなった。

機動隊が突入、闘争団を「ごぼう抜き」

午後2時。機動隊30人余りが突入を開始した。叩き割られた窓ガラスと受付の小窓から、機動隊員が「今、助けたる。今、助けたる」「怖くないですよ、怖くないですよ」と口々に言いながらなだれ込んだ。闘争団のメンバーで動ける者は、粉末消火器の栓を抜き、隊員にふきつけた。ある者はハンドマイクを放り投げ、またある者は事務所にあったレモン型の石鹸を投げつけた。

消火器の白い煙が立ち籠める中、拘束の瞬間をとらえようと新聞記者、写真記者の焚くフラッシュが光った。白い煙で視界を失った闘争団のメンバー同士が、機動隊員と間違えて殴り合った。機動隊員らは、闘争団メンバーの体に食い込んだ針金をペンチで丁寧に切り、「一人ひとりをゴボウ抜きにして」(朝日新聞)各メンバーを毛布でくるみ、事務所の外へ連れ出した。それは騒ぎを起こした犯罪者を拘束したというよりも、自然災害に遭い発見された遭難者を保護した、といった光景だった。拘束はわずか七分で終了した。

全メンバーは機動隊員によって、担架がわりの毛布にくるまれて護送車に運ばれていった。車内にある床と椅子には、あらかじめ布団が敷き詰められていた。抵抗する者には上から布団がかぶせられた。

これからは警察署内での闘いが始まる――一6人の闘争団メンバーの緊張は高まった。闘争団を指揮した鎌谷は、この二日間の出来事をほとんどおぼえていないが、機動隊員がジュラルミンの盾を持って自分たちを取り囲んだこと、そして護送車に乗せられたことは鮮明に記憶している。

「おー、警察に行くぞーと思とったら、ほかされてん、ポイッて。あはははは」

護送車は青い芝の事務所の近くの空き地に到着し、機動隊員が闘争団のメンバーを次々に降ろした。

「おい君ら、手を貸してくれへんか」

機動隊員が事務所で待機していたゴリラのメンバーに声をかけた。メンバーは次々と事務所内に運ばれる障害者を呆然と見ていた。

罪を問わず、保護の対象

24時間におよぶ事務所占拠の結末は、無罪放免だった。闘争団がセンター事務所に持ち込んだハンドマイク、旗、ビラ等も機動隊員によって無事、届けられた。

拍子抜けしたのは闘争団のメンバーである。金満里は前掲書で、次のように書いている。

これにはみんな驚いてしまった。仮にも施設の事務所を占拠する、という大事件を起こし、曲がりなりにも法に触れることをやっているのである。まぁ、だいたいは予想がついていたものの、実際にそうされるとショックだった。機動隊に送り届けてもらうなんて、障害者は何やっても許されるのだ。しょせん世の中の責任の外なのである。事務所に着いても、待機していた健常者に、「機動隊に送ってもらうなんて情けない」と皮肉られるし、改めて障害者がいかにまともに扱われていないかを思い知らされた気がした。

障害者は法を犯しても罪に問われない――。つまりは一人前の人間とみなされていなかった。あくまでも保護の対象でしかなかった。

第4回「問題発言議員に決死のネガティブキャンペーン」に続く

問題発言議員に決死のネガティブキャンペーン