「無理をする」家庭もあれば「あきらめる」家庭も…「体験格差」をめぐる日本社会の現実

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習い事や家族旅行は贅沢?子どもたちから何が奪われているのか?

低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」、人気の水泳と音楽で生じる格差、近所のお祭りにすら格差がある……いまの日本社会にはどのような「体験格差」の現実があり、解消するために何ができるのか。

発売たちまち6刷が決まった話題書『体験格差』では、日本初の全国調査からこの社会で連鎖する「もうひとつの貧困」の実態に迫る。

*本記事は今井悠介『体験格差』から抜粋・再編集したものです。

ここまで、「お金」「放課後」「休日」「地域」「親」という様々な視点から、私たちが実施した子どもの体験格差についての全国調査の結果を確認してきた。

ここでは、これまでの議論を振り返りつつ、低所得家庭で「体験格差」がどのように現れているか、その大まかな類型化を試みてみたい。

「無理をする」か「あきらめる」か「求めない」か

最初に改めて確認しておくべき点は、「放課後」の習い事から、「休日」の自然体験にいたるまで、私たちの調査が広く「体験」として設定した具体的な活動のほぼすべてにわたり、「親の収入」と「子どもの参加率」との間に明白な関係が見られたことだ。

もちろん、個々の家庭を見れば、世帯年収が高いのに子どもの「体験」がない家庭や、その逆という家庭もあるだろう。だが、大きな傾向として、「お金」が「体験」と紐づいていることは否定しようがない。

さらに、こうした経済的な側面の検討に加えて、第一部の後半、「地域」や「親」の視点から体験格差を考えたパートでは、そもそも子どもや親が様々な「体験」をしたい(させたい)と思っているかどうかについても、調査結果をもとに考察した。

さて、ここで思い出してほしいのが、世帯年収300万円未満の家庭では、子どもの「体験ゼロ」の割合がほぼ3割(29.9%)だったということだ。念のために「体験ゼロ」の定義を再述すると、調査の前年に例えばたった一度でもお祭りに行ってさえすれば、「体験ゼロ」ではないということになる。

このように狭く定義したうえでもなお、低所得家庭においては、「体験ゼロ」の子どもたちが全体の3割を占める(世帯年収600万円以上では1割強)。逆に言えば、たとえ低所得家庭であっても、子どもがいずれか一つ以上の「体験」に参加している割合は7割ということになる。

後者の状況にある親たちは、基本的に何らかの「無理をする」ことで、子どもに「体験」の機会を提供していると言ってよい。「相対的貧困」かそれに近い状況にある家庭では、月に数千円、あるいは数百円の出費であっても検討を要する。ほかの大切な出費ともバッティングしてくる。

もちろん、そこでの「無理」の度合いや形はそれぞれの家庭によって様々だろう(大人の食費を削る、無料で参加できる「体験」の場を懸命に探す、など)。だが、様々な制約がある中で、子どもに豊かな「体験」を何とか与えているという意味では、概ね共通すると言えるのではないか。世帯年収300万円未満の7割ということで、この状況にある家庭が最も多い。

次に、「体験ゼロ」である残り3割の家庭の状況について考えてみよう。その中には体験を「あきらめる」ことを選んだために「体験ゼロ」になっている家庭と、そもそも「求めない」ことの帰結として「体験ゼロ」になっている家庭とがある。調査の中では、「子どもがやってみたいと思う体験をあきらめさせた経験」の有無にこの区別が対応しており、「あきらめる」家庭が約1割、「求めない」家庭が約2割となっている。これらをまとめると、図1のようになる。

「現在地」の先へ

ここまでの議論をまとめると、世帯年収300万円未満の家庭のうち、子どもの「体験」のために「無理をする」家庭が約7割、「あきらめる」家庭が約1割、「求めない」家庭が約2割ということになる。

あくまで極めて大雑把な見取り図だが、少なくとも「体験格差」という課題自体への認識がまだ十分な広がりを持っていない今の日本社会においては、議論の一歩目を踏み出すための土台にはなり得るかもしれない。そもそも私たちが民間の非営利団体の立場から今回の全国調査を企画したのも、こうした見取り図自体が不在だったからだ。

もちろん、これら3つの状況の間にある境界線が、極めて曖昧で揺らぎを含んだものであることには注意が必要だ。7割、1割、2割という数字を必要以上に固定的に捉えるべきではない。

例えば、「無理をする」状態から無理が利かなくなり、「あきらめる」状態へと移行する状況は容易に想像できる(逆もまた然り)。また、保護者や子どもに対する第三者からの働きかけや何らかの新たな刺激(友達の影響など)によって、「求めない」状態から「無理をする」状態へと移行する場合も十分あり得るだろう。

いずれにせよ、そもそも個々の家庭が無理をしなければ子どもに「体験」の機会を提供できない状況自体をどう捉えるのかだ。

社会からの適切なサポートが必要なのは「あきらめる」家庭と「求めない」家庭の子どもたちだけではない。「体験」のために「無理をする」家庭では、おそらくほかのところに経済的な皺寄せが来ているはずだ。世帯年収300万円という境界線も絶対的なものではまったくなく、その少し上で苦しい生活をしている人々の存在を見過ごしてはならない。

本書の最初に提示した問いを繰り返すなら、子どもにとって「体験」は「必需品」なのか、それとも「贅沢品」なのか。もしも「必需品」だと捉え直すとすれば、日本社会には今の状況からどんな変化が必要なのか。何をしなければいけないのか。

体験格差をめぐる日本社会の「現在地」を知り、私たちがこの課題を無視せずに、向き合っていくこと。今回の調査が、その出発点になればと思っている。

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