球団事務所を訪れたソフトバンク・古川侑利【写真:竹村岳】

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1年前の10月23日に戦力外通告をされた鷹・古川侑利…当時は家族と宮崎にいた

 ソフトバンクの古川侑利投手が7日、みずほPayPayドームを訪れ、球団から来季の育成選手契約を締結しない旨を通達された。「7月いっぱいで支配下になれなかったので、覚悟を決めていたというか……。そういう感じではあります」。2年連続で、戦力外通告を経験することになった。「どうしよう、どうしよう……」。頭が真っ白になった1年前、自分を支えてくれたのは、妻の存在だった。

 2022年オフに行われた現役ドラフトで日本ハムから移籍。1995年9月生まれだが、ホークスが4球団目という苦労人だ。今季はウエスタン・リーグで24試合に登板して2勝2敗、防御率2.35。一定の成績は残していたものの、支配下の壁は高かった。「この1年、腹を括って僕の中ではやってきました。8月から、本来の力を出せるようになってきたので」と、自分に対しての期待は抱いている。

 1年前の10月23日、球団から戦力外通告を受けた。古川は「みやざきフェニックス・リーグ」に参加中で、宮崎にいた。家族と一緒にチキン南蛮を食べていた時、知らない番号から電話がきた。「『美味い飯でも食いに行こう』って言って、その辺の居酒屋にいた時に電話が来ました。そろそろそういう時期だから……とは思っていたんですけど」と当時の状況について明かす。プロ野球選手として、仕事がなくなってしまう瞬間。目の前にいた妻に、こう漏らすしかなかった。

「呼ばれたわ、クビや」

 そこからの妻とのやり取りは「もう覚えていないですね。自分のことで精一杯でした。『どうしよう、どうしよう……』って感じでした」という。引退という2文字はその時には頭に浮かばず、現役続行の道を模索した。「いずれは来ることだと思うんですけど、奥さんも『絶対まだやれるやろ』みたいに言ってくれました。子どもにも『お父さんはプロ野球選手だったんだよ』って、記憶に残るまでやりたいです」と、気持ちはすぐに固まった。

実は福岡で着用したかった背番号…「ピッチャーで90番台って渋くないですか?」

「(現役続行に関しては妻も)めちゃくちゃ背中を押してくれました。『悔いが残らないようになるまでやってほしい』という人ですし、1度きりの人生なので。そんな感じの考えです」

 2桁から3桁になる。ボールペンを手に、契約書にも「古川侑利」と自筆でサインした。1軍の試合に出場する資格を、失った瞬間でもあった。育成選手として、劣等感を抱くことはなかったといい「背番号を見たら『育成だ』とは思いますけど、あんまりないですね。立場的には違いますけど、やることは一緒だと考えていました。『育成だから』というのは本当になかったです」。いつも自分を突き動かしてくれたのは、反骨精神だった。

 独立リーグや国外リーグも選択肢にはあった。NPBの他球団からも、誘いはあった。それでもホークスと育成契約を結んだのは「一番に契約をくれた」からだ。昨年12月には球団の取り組みの一環として、「ドライブライン・ベースボール」に触れるために米国に行った。自分を成長させるために、球団が力を貸してくれたことも嬉しかった。「そう考えたら、僕自身がレベルアップできる場をくれた。そんなふうに考えて、もっと成長できるようになるかなと思いました」と、オフを過ごしてきた。

 今年2月の春季キャンプ中、好調を維持して首脳陣からも絶賛された。支配下になった時、着用したい背番号に挙げていたのが98番だった。「ピッチャーで90番台って、渋くないですか? カッコいいなって思うんです。あとはシンプルに、僕の誕生日が9月8日っていうのもあるんですけどね。ただそれだけの理由です」と照れ笑いする。日本ハム時代の背番号は91番で「それも気に入っていたんです」と笑顔で振り返った。常にギリギリのところから上を目指してきた。だから、自分から諦めるつもりはない。

 モチベーションは常に「応援してくれている人を、喜ばせること」だと語っていた。今後についても「現役を続ける方向で考えています。家族もいますし、しっかりと話し合っていきたいです」とキッパリ答えた。家族のために全力で戦う。いつもと変わらない笑顔で、古川はまた再起を誓った。(竹村岳 / Gaku Takemura)