なぜ「クソどうでもいい仕事」は増え続けるのか…日本や世界で蔓延する「競争」の副作用

写真拡大

「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

「全面的官僚制化」という現象

グレーバーは、社会が全面的に官僚制的論理に貫徹されていく事態を「全面的官僚制化(total bureaucratization)」と呼んでいます。わたしたちにはなじみぶかいはずのこの現象がそれとわかりにくくなっているのは、ひとつには、この官僚制の全面化が、反官僚主義的レトリックをまといながら進行しているからです。

たとえば、大学にもPDCAサイクルのような「ニュー・パブリック・マネジメント」と総称されることもある企業管理や経営の手法が導入されています。それがまた官僚制的手続きを増殖させています。

しかし、それが「民間部門」で主要に形成されてきたものであるため、実際には官僚制的手続きであることがみえにくくなっているのです。しかし20世紀にマックス・ヴェーバーが官僚制の拡大深化を観察したとき、かれがみていたのは独占化をすすめていく資本主義のもとでの国家と私企業の双方における官僚制の展開と相互浸透でした。

現在起きているのは、かつての国家の領分であった官僚制と企業の領分であった官僚制とがその時代とは別のかたちで融合しながら、社会のうちに全域化しているといった事態です(これについて、日本でいまもっともイメージしやすいのは巨大広告代理店と政府──国家──の関係でしょうか)。それが、ここでの「全面的官僚制化」の意味です。

「数量化しえないものを数量化しようとする欲望」の正体

シラバスのような不条理なまでの官僚主義化は、実は、市場原理と相反しているどころか、市場原理の貫徹とむすびついているのです。

グレーバーによれば、それは「数量化しえないものを数量化しようとする欲望」の帰結です。その欲望は資本主義そのものが促進したともいえますが、それをここまで拡大させているのはネオリベラリズムです。というのも、ネオリベラリズムとはなによりも競争構造の導入によって特徴づけられるからです。

ネオリベラリズム研究は、おおまかにマルクス系の研究とミシェル・フーコー系の研究にわけられます。ここでの文脈で役に立つのはこのフーコー系の研究です。

かれらはネオリベラリズムを特定の資本主義の段階に対応したイデオロギーとするマルクス派に対して、ネオリベラリズムあるいはリベラリズム総体をひとつの統治の技術であり統治的合理性であるとみなします。それは、人々とモノなどからなる集合体を、どこまで自由にまかせ、どこで介入し、どこでどう統御すべきなのか、という問いに応じるひとつの知の体系なのです。

こうした観点からみたときに、さまざまなタイプのネオリベラリズムと古典リベラリズムを分かつひとつの重大な差異は、市場の概念にあるとされます。かんたんにいうと、古典リベラリズムにおいて、人間は交換する存在でしたが、ネオリベラリズムにおいては競争する存在となるのです。

ミシェル・フーコーは古典リベラリズムと区別された固有の意味でのネオリベラリズムの統治術が生まれるためには、市場経済とレッセフェール(自由放任主義)政策のあいだの連結が解除されねばならない、そしてその解除を可能にするために市場における競争という契機が中核に据えられる必要があるといいました。その競争は市場にゆだねて放置しておけば、自然にわきあがるものではありません。

競争は、原始的で自然的な所与では全くないものとして、つまり、いわば社会の本源、社会の基礎にあって、表面に上って来させて再発見するだけでよいようなものでは全くないものとして現れました。競争とはそのようなものではなく、諸々の形式的属性を備えた一つの構造であり、競争構造のそうした形式的属性こそが、価格のメカニズムによる経済の調整を保証するもの、保証可能にするものである、とされたのでした。したがって、競争が確かに、その内的構造において厳密なものであると同時にその歴史的で現実的な存在においては脆弱なものであるような形式的構造であるとすれば、自由主義政策の問題はまさしく、競争の形式的構造が作用可能となるような具体的な現実空間を実際に整備することでした。レッセフェールなしの市場経済、つまり、統制経済なしの能動的政策。したがってネオリベラリズムは、レッセフェールの徴のもとにではなく、逆に、警戒、能動性、恒久的介入といった徴のもとに置かれることになるのです

つまり、競争は市場から生まれるのではなく、積極的に国家によって、ときにはその強制によって、環境として構築されなければならないのです。

したがってネオリベラルの政策はいたるところに競争環境を人為的に構築し、その競争を保証するよう作動します。そのための障害である労働組合は、もちろん解体されねばなりません。あるいは、競争を促進する仲介役へと機能転換しなければなりません。

このような競争環境が自由の増大などとは無関係であるどころか、真逆であることをわたしたちは経験しています。民間企業はもちろん、大学であれ、行政組織であれ、競争力をつけよということがつねに喧伝され、組織としても個人としても競争にさらされることが健全化を促すとみなされます。

ところが、それによって、わたしたちは日々、評価にさらされ、監視され、そればかりでなく、業績報告、自己評価、点検といったかたちでみずからその評価過程に参加させられ、ペーパーワークのはてしない増大に対応をせまられています。その競争環境が、いかに人為的に大量の装置の配備でもって構築されているか、身をもって了解しているのです。

そしてネオリベラリズムはこの競争構造を社会のほとんどあらゆる領域に導入しようとするのです。「私有化[民営化]」とはこの努力のことを意味します。そしてそれによって、ほとんど社会総体を市場のイメージによって再構築しようとするのです。ネオリベラリズムが「レッセフェール」ではなく、きわめて人為的で構築的であり、国家の介入も否定しないのはそのためです。

実際、ネオリベラリズムが思想運動から統治実践へと移行する最初の実験場となったチリでは、その理念は、クーデターと独裁的国家の運営をバックにしながら構築されました。それ以降、ネオリベラリズムの浸透はつねに国家の破壊的作用と構築的作用をともなっています。

競争構造を導入するためには、すべてを比較対照させねばなりません。したがって、数量化しなければなりません。これがネオリベラリズム特有の「会計文化」、そして格付け機関の増殖、「格付け文化」の蔓延とむすびついています。

あとはわたしたちが良く知る風景です。業績、学内業務、社会貢献、など。すべてをポイント化するためのペーパーワークです。

ネオリベラリズムこそがBSJの増殖を促進している

マルセル・モース以来の人類学は、「各人は能力に応じて、各人には必要に応じて」という有名な19世紀のコミュニズムにかかわる定式を、未来に実現すべき社会の原理ではなく、あらゆる人類社会の基礎部分でつねにすでに動いている、そしてこれなしにはどんな社会もありえない基盤的論理であるとみなしてきました。

グレーバーはこの洞察を『負債論』において全面的に展開しつつ「基盤的コミュニズム」という概念を与えました。これはまさに「数量化を差し控える」論理です。オレはこれだけ働いたからこれだけいただく権利がある、だれだれよりもエラいといいたくなる欲望を差し控えるモラルでもあります。

この論理がもっともみえやすいのは家族や親しい友人のあいだです。労働組合のそもそもの機能もこうした「能力」や「生産性」の数量化によって分断されることを阻止することにひとつはありました。ネオリベラリズムがなぜかくも労働組合を敵視するかというと、まさにその論理こそが解体すべき敵だからです。

その基盤となる領域は、たいていケアとか感情、愛情、連帯といった論理で作動しています。それは社会的関係や人間そのものの生産にかかわっています。この基盤的領域そのものが数量化されるとき、ケン・ローチ監督の映画にみられるような、失業者にその保障ひとつ付与するにも、とことん屈辱を与え、最終的にはその取得の権利を断念させることを目標としたとしかおもえないような官僚主義的手続きのハードルが築かれるのです。

要するに、ネオリベラリズムは官僚制と背反するどころか、むしろ官僚制化を招くものであって、その現象は海外も日本も変わるところがないのです。

大学改革について、改革がその成果をむすばないまま、改革そのものを目的としたかのように延々とつづいていく「慢性改革病」といわれる現象も、日本独特というよりも、ネオリベラルな市場構造の拡張への国家の関与が官僚制の肥大としてあらわれている世界で進行している過程のひとつの表現であるとみるべきです。

つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。

なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病